エネルギー小国日本の選択(5) 臨戦態勢のエネルギー産業
原子力開発と原爆投下
原子力技術はヨーロッパで芽生え、アメリカで進化した。原子力技術に欠かせない、量子力学の先駆けとなる原子模型をデンマークのニールス・ボーア(Niels Bohr;1885~1962年)が1913年に考案。その後、1932年にイギリスのジェームズ・チャドウィック(James Chadwick;1891~1974年)が中性子を、1939年にドイツのオットー・ハーン(Otto Hahn;1879~1968年)らがウランの核分裂を発見した。そして1940年、アメリカのグレン・シーボーグ(Glenn Seaborg;1912~1999年)らがプルトニウムの生成、分離に成功したことで、初期原子力技術の基礎ができていった。上記4名はいずれもノーベル賞を受賞している。 技術進歩が加速したのは1939年、ヨーロッパからアメリカに亡命したユダヤ人科学者のアルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein;1879~1955年)とレオ・シラード(Leo Szilard,1898~1964年)が、ルーズベルト大統領に手紙を宛てたことがきっかけとされる。「アインシュタインの手紙」などと呼ばれた。 ウランによる連鎖反応技術が近く確立され、爆弾兵器になり得るとし、ナチス・ドイツの動向を注視するよう政府に促すとともに、また連合国における研究の支援を求める内容だ。その後の1942年、アメリカ、イギリス、カナダが科学者や技術者を集め、原子爆弾の開発製造に総力を挙げた「マンハッタン計画」が始動した。同じ1942年、アメリカの大学で世界初の人工原子炉が臨界に達した成果もみられたが、原子力は軍事利用が優先された。 マンハッタン計画の下、1945年7月16日には世界初の原爆実験を実施、8月6日に広島、8月9日に長崎へ原爆が投下され、数十万人が犠牲となった。原子力の平和利用の気運が高まるのは、第34代アメリカ大統領のドワイト・アイゼンハワー(Dwight Eisenhower;1890~1969年)が1953年に「ATOMS For Peace」と題して国連で演説するなど、戦後になってからだった。原子力は殺戮兵器として使われたことで、その破壊力が印象づけられ、1989年まで続いた東西冷戦で長く駆け引きの材料となった。 当初、日本への原爆投下を夢想もしていなかったアインシュタインは晩年、大統領への手紙を後悔していたという。