エネルギー小国日本の選択(5) 臨戦態勢のエネルギー産業
さらに進んで1926年に国家総動員機関設置準備委員会、翌1927年には内閣資源局が設置された。満州事変を経た1937年、資源局は国策を立案する強大な権限を持つ企画院へと改組され、あらゆる資源を掌握するようになる。ここでいう資源とは、気候や土地、動植物などの自然資源と、人的資源の両方を指していた。 国家総動員法と同時に1938年、電力管理法や日本発送電株式会社法などから成る電力国家統制法も施行された。電力管理法は、1936年の電力国家管理要綱の閣議決定を踏まえ、企業や自治体全てを対象に国内の電力施設全てを国が接収、管理する内容だった。 東京電燈や東邦電力など五大電力は激しく反発したが、長期化する戦局や官僚の強い意向には抗しきれず、電力産業の国有化が進んでいった。1939年4月に逓信省に電気庁ができ、同日、発電と送電を担い、戦後1951年まで存続した半官半民の日本発送電、通称「日発」(ニッパツ)が発足した。
一方、家庭への戸別配電は従来の電力会社が担った。太平洋戦争直前の1941年には配電統制令が出され、配電事業で全国を九つのブロック、すなわち北海道、東北、関東、中部、北陸、近畿、中国、四国、九州に分け、400社超あった事業者は9社に集約された。これが現在の沖縄電力を除く大手電力9社の源流となった。 こうして国家統制が進み、「電力は戰力!」と訴えるポスターも作成された。「日本中の家庭が深夜中電燈を消すと飛行機三〇〇台分、戦車三〇〇〇台分の電力が節約される」と節電を呼び掛けたが、戦況悪化に伴い、電力不足は深刻さを増していった。 戦争の非常時に国が統制を強めていったのは、石油産業も同様だった。1933年、商工省(今の経済産業省)などの協議会が中心となり、有事の際の石油の円滑供給を見込んだ「石油ノ民間保有」や「石油業ノ振興」が柱の「石油国策実施要綱」が作成された。これに続き1934年に石油業法が施行され、同年商工省に燃料課が、1937年に外局に燃料局が新設された。石油業法は日本企業の保護が目的だったため、外資系のスタンダード石油などは反発した。しかし法を盾に石油販売の割当制が導入され、過半を占めていた外資の国内シェアは次第に低下し、日本勢のシェアが逆転していった。