「キプロス再統合」交渉が決裂 より複雑化する“南と北”の分断
2004年から始まった再統合交渉
その後のキプロスでは、国際的に承認された「キプロス共和国」政府が南部のみを、トルコだけが承認する「北キプロス」が北部を、それぞれ実効支配する状況が続きました。この異常事態を収束させる取り組みは、2004年に動き始めました。 この年、キプロスはEU加盟を控えていました。それまでにキプロスを再統合すべきという機運が高まる中、国連のアナン事務総長(当時)の仲介のもと、両派が交渉を開始したのです。 両派の主張を踏まえて、国連は主に以下のポイントからなる提案(アナン案)を示しました。 ・ギリシャ系、トルコ系からなる連邦制国家の建設 ・国家元首(大統領)の輪番制 ・両派同数の議員からなる上院と両派の人口比に応じた議員からなる下院の設置 ・両派同数の裁判官からなる裁判所の設置 ・両派の境界を確定し、住民の移住を制限 ・ギリシャ、トルコ双方の軍隊の駐留 アナン案は、両派が「つかず離れず」に「一つのキプロス」を構成するための、苦肉の策だったといえます。しかし、ギリシャ系からは「譲歩しすぎ」という不満が噴出。特に、国連安保理で毎年のように非難されてきた、トルコ軍の北部駐留が期限付きながらも認められたことが問題となりました。 そのため、アナン案の承認をめぐる国民投票で、トルコ系の65%が賛成したのに対して、ギリシャ系の74%は反対。再統合は頓挫し、キプロスは分断されたままEUに加盟したのです。
交渉で論点となった統治権や財産権
ただし2004年の再統合交渉は、不調に終わったものの、その後の交渉継続に向けた道を開くことになりました。 特に1990年代からEU加盟を申請してきたトルコにとって、EUが求めるキプロス問題の解決は加盟交渉を進める上で避けられないテーマの一つでもありました。そのため、ギリシャが加盟するEUがキプロスにそうし続けたように、トルコ政府もほぼ一貫して「北キプロス」政府に再統合交渉を求めたのです。 その結果、2008年には両派の首脳会談が実現。キプロスと「北キプロス」を結ぶ道として1974年に封鎖され、南北分断の象徴となっていたレドラ通りの通行が解除されるなどの融和が進み、2010年からは定期的に直接交渉が行われるようになりました。 しかし、双方の不一致から、直接交渉はたびたび中断。2012年から国連が交渉を仲介しましたが、先述のトルコ軍の駐留だけでなく、以下の各点での合意の難しさが、交渉成立を阻み続けました。 ・「統治権」:両派が分断している中、それぞれの自治権を尊重する連邦制を導入するとしても、中央政府にどの程度の権限を認めるべきか(多数派のギリシャ系は強い権限を、少数派のトルコ系は弱い権限を、それぞれ求める傾向があり、そのためにアナン案でも「輪番制政府」が提案されていた) ・「財産権」:1974年に北部を追われたギリシャ系住民が統一後、元の居住地に帰還できるか(既に北部にトルコからの移住者が定住している中、元の住民であるギリシャ系の財産を誰が保障するか) ・「市民権」:キプロスは既にEUメンバーだが、1974年以来「北キプロス」に移住してきているトルコ系住民にも、統一後にEU市民権を認めるべきか