「キプロス再統合」交渉が決裂 より複雑化する“南と北”の分断
強硬派のギリシャ系兵士がクーデター
ところが、独立後も両派の対立は収まらず、1964年には内戦に発展。この際、アメリカが介入したほか、国連安保理が国連キプロス平和維持部隊(UNFICYP)を派遣したことで、対立は一旦収まりました。 しかし、1974年には軍によるクーデターが発生し、マカリオス大統領(当時)が失脚。これにより、キプロス情勢はさらに混迷の度を深めることになりました。 独立段階から大統領の座にあったマカリオス氏は、当初ギリシャへの編入を求めていました。しかし、それがキプロスを不安定化させることから、内戦後はトルコ系住民やトルコとの平和共存に方針転換。さらに、それまでの親欧米的な外交方針も、中立路線に転換していました。 クーデターは、これに不満を抱いた強硬派のギリシャ系兵士が、キプロス併合を目指した当時のギリシャ軍事政権や東西冷戦を背景に東地中海の要衝を手放したくないアメリカの支援のもとで起こしたものでした。
北のトルコ系、南のギリシャ系で分断
クーデターを受けて、トルコはキプロスに侵攻。北大西洋条約機構(NATO)同盟国のアメリカも予測していない行動でした。「トルコ系住民の保護」を掲げたトルコ軍は、瞬く間に北部(島の約37%)を制圧。約18万人のギリシャ系住民が南部への避難を余儀なくされました。戦闘が激化する中、ギリシャ系、トルコ系双方がお互いに虐殺を行ったといわれます。 この状況に、ギリシャはアメリカに軍事介入を要請。しかし、「西側」同士の衝突を恐れたアメリカは、これを事実上拒否。「保障国」イギリスも、マカリオス氏を駐留英軍が保護したものの、それ以上の介入を控えました。 その結果ギリシャでは、反トルコ感情の高まりと比例してキプロス問題で手も足も出ない政府への批判が高まり、軍事政権が崩壊して民主化するという「おまけ」までついてくることになったのです。 一方、キプロスに関しては、各国の折衷案として国連安保理でUNFICYPの権限強化が決定。トルコ軍が支配する土地とそれ以外の間に、緩衝地帯(グリーンライン)が設置されました。 その後、トルコが実効支配する北部は、1983年に「北キプロス・トルコ共和国」の樹立を一方的に宣言。キプロスの首都であるニコシアの北半分、北ニコシア(レフコシア)が事実上の首都となりました。これを「国家」として承認したのはトルコだけですが、これによりキプロスの分断が決定的になったのです。