「死ぬこと」を命じられた若者たち…指名された「最初の特攻隊員13名」が「志願」を強制されるまでの「あまりに悲壮なやりとり」
今年(2024年)は、太平洋戦争末期の昭和19(1944)年10月25日、初めて敵艦に突入して以降、10ヵ月にわたり多くの若者を死に至らしめた「特攻」が始まってちょうど80年にあたる。世界にも類例を見ない、正規軍による組織的かつ継続的な体当り攻撃はいかに採用され、実行されたのか。その過程を振り返ると、そこには現代社会にも通じる危うい「何か」が浮かび上がってくる。戦後80年、関係者のほとんどが故人となったが、筆者の30年にわたる取材をもとに、日本海軍における特攻の誕生と当事者たちの思いをシリーズで振り返る。(第4回) 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…! 第3回『「空母撃沈11隻、撃破8隻」と大ウソの大本営発表がなされたが…のちの「特攻」にもつながる「台湾沖航空戦」の大損害の実態』より続く
「捷一号作戦」発令
フィリピンの海軍航空戦力の主力・第一航空艦隊(一航艦)が司令部を置くマニラから、クラーク・フィールド、マバラカット基地近くの第二〇一海軍航空隊本部までは北に約80キロ、車で2時間あまりの距離である。 昭和19(1944)年10月19日。大西瀧治郎中将と副官・門司親徳主計大尉を乗せた黒塗りの乗用車が、一航艦司令部を出発したのは、午後3時半のことであった。大西は軍需省航空兵器総局総務局長から一航艦司令長官に親補されることが決まり、レイテ島のレイテ湾口に位置するスルアン島に米軍が上陸したとの一報を受けた10月17日、台湾・高雄基地から輸送機でマニラに飛んできていた。 10月18日夕、敵のフィリピン進攻に備えてあらかじめ定められていた「捷一号作戦」が発令され、日本海軍は総力をもって米軍を迎え撃つことになっている。 19日の早朝、大西は作戦方針を前線指揮官に伝えるため、指揮下にある二〇一空(零戦)、七六一空(陸攻、艦攻)の司令、飛行長に、司令部に出頭するよう命じた。
マバラカット基地へ
正午になって七六一空司令・前田孝成大佐と飛行長・庄司八郎少佐がクラーク・フィールド西方山麓のストッツェンベルグから姿を見せたが、同じくクラーク・フィールドのマバラカット基地から来るはずの二〇一空司令・山本栄大佐と飛行長・中島正少佐は姿を現さない。 この日、マバラカットは度重なる米艦上機の攻撃を受け、戦闘指揮にかかり切りで動けなかったのだ。山本大佐と中島少佐が、ようやく車でマバラカットを出発したのは、午後2時5分。しかし、そのことを知る由もない大西は、自らがマバラカットに赴くことを決めた。 「午後3時ごろ、参謀長・小田原俊彦大佐に呼ばれて、大西長官がクラークに行くから用意しなさい、と言われました」 と、門司(1917-2008)は私に語っている。 当時、フィリピンの治安は非常にわるく、基地から離れた地点に不時着した日本軍の搭乗員が住民に物品を奪われ惨殺されたり、日本軍将校を乗せた車がゲリラに襲撃されるなどの事件がしばしば起きて、夜は特に危険だと言われている。 上空を飛ぶ敵機から発見されにくいよう屋根に木の葉の擬装を施した車は、マニラの海岸通りから市街地を抜け、郊外の国道に出るとルソン島中部の平野を北上する。将官乗車中を示す黄色い将官旗は、ゲリラの格好の目標になるので、道中は外している。 門司は、大西と並んで後席に座っている。大西が右、門司が左。運転席では、司令部の運転員が黙々と運転している。