「細川護熙」元総理が語った「白洲正子」の素顔 “魔法使いのおばさん”は祖父に「トノサマ、あれはニセモノでしょう」と迫った
護熙氏の祖父から芸術を学ぶ
《細川氏は、護立氏から骨董目利きの指南を受けていた若かりし日の白洲正子に、この護立邸で出会う》 正子さんと初めてお会いしたのは私が小学校の高学年か、中学生の頃だったと思います。私は鎌倉に住んでいましたが、目白台の祖父の家にしょっちゅう遊びに行っていました。私が祖父の家に行くと、当時40歳くらいの正子さんがよくいらっしゃっていて、「また魔法使いがいる」と思った記憶がありますから、正子さんは週に1、2回ぐらいは祖父のところに通っておられたんでしょう。 正子さんの生家である薩摩藩・樺山(かばやま)家と細川家は昔から親交があり、祖父は骨董に興味を持った正子さんに、「それならうちに来ればいい」と言って目利きの師を買って出たそうです。細川家には室町以来の茶道具や能装束、能面、刀剣、中国陶器、さらにはセザンヌ、ルノアールの絵画や禅画まで、多くの美術品がありましたから、芸術を学ぶ人にとって、これほど恵まれた環境はありません。 細川家を訪れた正子さんは、居間で祖父と向き合い、「トノサマ、これはどこが見どころなんですか」といった具合に質問し、何時間もレクチャーを受けておられました。
贈られた“ニセモノ”を見破って
《その無秩序、無鉄砲、無制限の行動から「韋駄天お正」という二つ名で呼ばれた白洲正子。破天荒な要求は、時に師・護立氏に対して発せられることもあった》 正子さんは良い骨董品を手に入れると「せしめた」とおっしゃるのが口癖だったようですが、祖父も見事に正子さんから“せしめられた”ことがあったようです。 私が高校生だった頃、正子さんが祖父に初代・林又七の刀の鍔をねだられた。たまたま正子さんが大病を克服された直後だったので、「売るのは嫌だが全快祝いということで進呈しよう」と言って祖父は正子さんに又七をお渡しした。ところが、それは祖父の悪戯で、実は鍔は又七を写したもの。 正子さんは夢にまで見た又七を貰えたことに喜び、日夜眺めておられたそうですが、見つめ続けているうちに、貰った品が今まで見てきた又七の鍔より“弱い”ことに気がついた。そこで、正子さんは再び祖父のところにやってこられて、「トノサマ、あれはニセモノでしょう。ほんとのをください」と迫られたんです。祖父は「や、バレたか。仕様がないな」といって、今度は本物をお渡ししました。 しかし、正子さんの凄いのはここから。「この際、信家(注:安土・桃山時代の鍔工)の鍔も貸してくださいナ」と祖父に頼み、又七だけでなく信家まで“せしめて”しまわれた。祖父の方が完全に守勢にまわっていたんですね。 *** 正子さんの勢いに圧倒された子供時代を経て、芸術を介した同志的な付き合いへ。第2回【「本物はもの欲しそうな顔をしていない」…細川護熙さんが明かした「白洲正子」の言葉首相辞任後に届いた手紙の中身とは】では、正子さんと旅した時の思い出や、母にも近い存在だったその姿を語っている。
デイリー新潮編集部
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