賤ヶ岳七本槍の加藤嘉明が生んだ「家風」と御家騒動
■秀吉も評価した剛毅な加藤嘉明 加藤嘉明(かとうよしあき)は賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍の一人として知られ、同僚の加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)の方がより広く知られていますが、2人に負けない猛将として数々の武功を挙げています。豊臣家の直臣として、賤ヶ岳の戦いから小田原征伐などで活躍し、文禄慶長の役でも功名争いに邁進し、積極策を主張するなど秀吉から高い評価を受けています。 徳川幕府においても家光の介添え役を務め、東北の抑えともいうべき会津を任されるなど、加藤家の武勇を期待されていましたが、嘉明の死後10年ほどで改易されてしまいます。 これは嘉明が生んだ加藤家の「家風」に原因があると思われます。 ■「家風」とは? 「家風」とは辞書によると「その家に特有の気風・習慣。その家の流儀や作法など」とされています。それぞれの家に、世代を通じて受け継がれてきた独自の慣習や気風、暗黙のルールをさして「家風」とも言います。 嫁入りや婿入り、養子などで外部から家族の一員となった者には、「家風」の尊重と同化が求められます。但し、年数を重ねることで変化することも多く、またその当初の目的や理由は失われて形だけが残されがちです。 これは企業などの組織団体では「社風」と言われるものです。加藤家も一代で作り上げた嘉明の考えや行動が、「家風」として引き継がれたと考えられます。 ■加藤家の事績 嘉明の加藤家は、本来は甲斐国から三河国に移住した岸家を出自としています。父の岸教明(きしたかあき)が三河一向一揆で一揆方として家康に敗れ、秀吉に仕える際に加藤を名乗ります。加藤光泰(かとうみつやす)の父貞泰(さだやす)の猶子(ゆうし)となり、推挙されたためと言われています。 嘉明は羽柴秀勝(はしばひでかつ)の小姓から秀吉の直臣となり、別所家との三木合戦にて武功を挙げます。山崎の戦いでの活躍で300石の加増を受けると、賤ヶ岳の戦いでは後に七本槍と称される戦功を挙げ、3000石を得ています。また、四国征伐での伊予国平定での功績で淡路国津名1万5000石を受け、若くして大名となります。 九州征伐や小田原征伐にも水軍として従軍し、文禄の役後に伊予国正木の加増で6万石を得ています。続く慶長の役での活躍も秀吉から高く評価され、10万石となります。関ヶ原の戦いでは東軍として勝利し、伊予国正木20万石を領すると、現在も残る松山城を建てて居城とします。 その後は1627年に蒲生家の後を受けて、会津43万5500石に加増移封され、重要な東北の抑え役を担います。 このような華々しい活躍の裏で、嘉明は同僚や家臣との衝突を引き起こしています、そして、それが加藤家の成功事例となり、「家風」のようになったと思われます。