賤ヶ岳七本槍の加藤嘉明が生んだ「家風」と御家騒動
■「家風」となる嘉明の剛毅な逸話の数々 嘉明の性質を物語るものとして、秀吉の正室ねねを激怒させた逸話があります。初陣前の主君秀勝を差し置いて、勝手に秀吉の播磨攻めに従軍し、自身の初陣を飾ろうとします。それがねねに発覚し、「御家のためにも放逐(ほうちく)するように」と、秀吉に訴えられています。これは秀吉の直臣となることで不問とされますが、嘉明の剛毅さをよく伝えています。 また、同僚との功名争いにおいても剛毅さを発揮し、藤堂高虎(とうどうたかとら)との戦功を巡る諍(いさか)いは長く尾を引いています。さらに、事件を起こした藤堂家家臣を加藤家で匿い、一触即発となる騒動も起こしています。この二人の反目は高虎が会津への加増移封を辞退し、幕府に嘉明の武勇を称えて推薦するまで続きます。 文禄慶長の役では、諸将の反対を押し切り出撃して、大きな被害を受けています。そして、関ヶ原の戦いでも、岐阜城の攻略において井伊直政(いいなおまさ)と作戦面で激しく衝突し、刀に手を掛けるほどだったと言われています。一方で、岐阜城の状況を直に見て考えを改めるバランス感覚も有していたようです。 他にも有名な逸話として、家臣の塙直之(ばんなおゆき)を放逐したあとの徹底した奉公構(ほうこうかまい=将来の奉公を禁じること)があります。命令違反を咎められて出奔した直之が、福島家に仕官すると、正則に直接抗議して解雇させています。 このような嘉明の剛毅な姿勢が「家風」のように引き継がれてしまい、次代の加藤家を揺るがす事件に繋がったのかもしれません。 ■二代目藩主明成が会津騒動で見せた「家風」 嘉明の死後、会津を引き継いだ嫡子明成(あきなり)の治世は、領民からの収奪が苛烈であったという話もありますが、詳細は不明な点が多いようです。しかし、1639年ごろに、明成の領国運営に関して、重臣の堀主水(ほりもんど)との間で感情的な対立が生まれています。 嘉明が取り立てた主水も剛毅な性格で、出奔する時にわざわざ城に鉄砲を撃ち、関所破りをしたようです。明成は高野山や紀州藩へ逃れた主水を、藩の存亡をかけてまで引き渡しを求め続けました。最終的に、これを成功させて江戸にて処刑し、決して逃亡を許さない加藤家の姿勢を見せます。 さらに、明成は東慶寺に匿われている主水の妻子の引き渡しも求めますが、これは天秀尼(てんしゅうに)によって阻止されています。 そして、事件後に突如として、明成は会津領の返上を申し出ます。これは病身を理由にという説もありますが、会津騒動の責任を自ら取るためだったとも言われています。幕府は庶子明友への家督継承と減封で落着させようとしますが、明成は明友が側室の子であることから、この裁定を頑なに拒否します。こんなところでも剛毅さを垣間見せます。 そのため加藤家は、一旦改易とされます。幕府は嘉明の功績を称えて、石見国(いわみのくに)吉永1万石で明友を新規取り立てとし加藤家の存続を図ります。その後、加藤家は1万石の加増などもあり、近江国(おうみのくに)水口2万5000石の藩主として明治を迎えます。 ■「家風」のマイナス面が生む弊害 嘉明はその剛毅な性格をもって、同僚との激しい功名争いをしながら、一代で会津40万石の大大名へと立身出世を遂げました。同じく剛毅な福島正則が幕府に疎まれて改易される一方で、権力者の意図を踏み外さないバランス感覚を同時に有していたように思われます。 しかし、嘉明の死後、その剛毅な面だけが「家風」として定着してしまったのかもしれません。 現代でも、先代の考えや行動原理が「家風」や「社風」として残されたものの、時間を経ていくうちに劣化して、そのマイナス面が組織を窮地に陥れてしまう例は多々あります。 もし明成も、嘉明のようなバランス感覚も引き継いでいれば、改易は免れていたと思います。 ちなみに、嘉明も蒲生氏郷(がもううじさと)と同様に、陸奥会津への加増転封を栄転ではなく左遷のように感じる部分があったようで、心の底では喜んでいなかったと言われています。
森岡 健司