ろうの両親から生まれたコーダの子ども時代「まさに“格闘の毎日”だった」
ろうの両親の元に生まれ「コーダ(聴こえる子ども)」として育った、作家でありエッセイストである五十嵐大さん。小さな港町で家族に愛され健やかに育つも、やがて自分が世間からは「障害者の子」と見られていることに気づき──。誰も知らない場所でふつうに生きたいと、逃げるように向かった東京で五十嵐さんが知った本当の幸せとは? 『ぼくが生きてる、ふたつの世界』から一部を抜粋して紹介します。 ※画像はイメージです
ぼくは耳の聴こえない両親の元に生まれた。父は幼少期の病気が原因で聴力を失った後天性の聴覚障害者で、母は生まれつき音を知らない先天性の聴覚障害者だった。このような聴覚障害のある親に育てられた聴こえる子どもは“コーダ”と呼ばれる。これは「Children of Deaf Adults」の頭文字を取った言葉(CODA)で、「聴こえない親の元で育った、聴こえる子どもたち」を意味する。けれど、この言葉を知ったのは大人になってからだった。子どもの頃は、聴こえない親に育てられている子どもなんて自分くらいだ、と真剣に考えていた。 いつも、ひとりぼっちだった。 そんな環境が嫌いだった。聴こえない親のことが、嫌いだった。父は中途失聴者であるため、多少は音声でのコミュニケーションが取れる。けれど、母はまったく音を知らない。だから、特に母のことが疎(うと)ましかった。生まれつき耳が聴こえないお母さんに育てられているだなんて、誰にも知られたくなかった。とにかく恥ずかしい、とさえ思っていた。 障害者とその家族は、社会からいつも“ふつうではない”という眼差しをぶつけられる。だからこそ、“ふつう”になりたいと願ってきた。子どもだったぼくにとって、それはとてもしんどいことだった。無理解によって必要以上に傷つけられてしまうこともあった。すべて、母の耳が聴こえないせいだ。そんな気持ちがどんどん膨らんでいった。 でも、矛盾しているけれど、それ以上に母のことが大好きだったのも事実だ。 ぼくは好きと嫌いとの間で揺れ動き、ときには母のことをひどく傷つけてきた。「障害者の親なんて嫌だ」とその存在を否定するような言葉をぶつけては、彼女のことを哀しませてきた。そのたびに母は、「お母さんの耳が聴こえなくて、ごめんね」と謝る。瞬間、罪悪感が芽生える。どうしてそんなひどいことを言ってしまったのだろう。母を傷つけたいわけではないのに、うまく距離が取れない。胸が潰れそうになりながら、常に母と向き合ってきた。あの日々を形容するならば、まさに“格闘の毎日”だ。 それでも、いまは聴こえない母の元に生まれてきたことを、とても幸せなことだと感じている。母とぼくとの人生は苦しみや葛藤に満ちていたものの、驚きや発見も溢あふれていた。そしてなにより、いまは彼女との間に“ひとつの夢”ができた。それをとても誇りに思っている。