書けなさを腑分けすることで、人間の書く本性が炙りだされる怖い小説―森見 登美彦『シャーロック・ホームズの凱旋』鴻巣 友季子による書評
私が知る限り、小説家にはスランプを自然現象として受け入れる人と、「虚構」として否定する人がいる。前者の例はジュンパ・ラヒリ。後者の代表はトニ・モリスン。 作者自身の不調を見つめて書いたという森見の本作は、スランプの謎を解こうとした迫真のミステリーだ。コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズの翻案の形だが、舞台は京都、ヴィクトリア朝京都である。ホームズ、ワトソン、モリアーティ教授、レストレード警部らが揃ってスランプの真っ最中だ。 一方、ドイルのシリーズで影の存在だった者たちが活躍するのも本作の面白さの一つ。ホームズの記録係に甘んじていたワトソンの創作者としての自我が語られ、女性たちが「凱旋」する。ホームズの頭脳を凌駕しながら一作で消えていったあの人、理不尽な仕打ちを受けて消息不明にされてしまったあの人、いつもホームズに家庭を振り回されてきたあの人。 ホームズの天才的な推理力はなぜ消えた? それを掘り下げることは、哲学的創作論にも繋がる。書けなさを腑分けすることで、人間の書く本性が炙りだされる怖い小説だ。 [書き手] 鴻巣 友季子 翻訳家。訳書にエミリー・ブロンテ『嵐が丘』、マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ1-5巻』(以上新潮文庫)、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』(河出書房新社 世界文学全集2-1)、J.M.クッツェー『恥辱』(ハヤカワepi文庫)、『イエスの幼子時代』『遅い男』、マーガレット・アトウッド『昏き目の暗殺者』『誓願』(以上早川書房)『獄中シェイクスピア劇団』(集英社)、T.H.クック『緋色の記憶』(文春文庫)、ほか多数。文芸評論家、エッセイストとしても活躍し、『カーヴの隅の本棚』(文藝春秋)『熟成する物語たち』(新潮社)『明治大正 翻訳ワンダーランド』(新潮新書)『本の森 翻訳の泉』(作品社)『本の寄り道』(河出書房新社)『全身翻訳家』(ちくま文庫)『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくまプリマー新書)『孕むことば』(中公文庫)『翻訳問答』シリーズ(左右社)、『謎とき『風と共に去りぬ』: 矛盾と葛藤にみちた世界文学』(新潮社)など、多数の著書がある。 [書籍情報]『シャーロック・ホームズの凱旋』 著者:森見 登美彦 / 出版社:中央公論新社 / 発売日:2024年01月22日 / ISBN:4120057348 毎日新聞 2024年3月9日掲載
鴻巣 友季子