人間の能力や性格は、幼少時の環境ですべて決まるのか?
人に自由意志があるのかを読み解くうえで重要な「決定論」とは何なのだろうか? 大まかにふたつの種類に分けることができるこの思想について、詳しく解説する。 人とは自由意志などない、遺伝子や脳の操り人形なのだろうか? ※本記事は『自由意志の向こう側 決定論をめぐる哲学史』(木島泰三)の抜粋です。
決定論のいろいろ
「決定論」と一口に言ってもいろいろな形があるので、交通整理が必要だ。まず「決定論」は「人間についての決定論」と「宇宙についての決定論」に分けられる。 この内の「人間についての決定論」に定義らしきものを与えてみると、さまざまな学問(生物学、心理学、経済学、歴史学など)の成果を人間に適用して「人間の△△はすべて××によって決定されている」のような結論を導く主張を指す、ということになる。 「人間は利己的遺伝子の操り人形かもしれない」というのは進化生物学、「意識的な自己は脳の無意識的な過程の操り人形かもしれない」というのは神経科学(脳科学)に由来する決定論的な主張である。 このタイプの「決定論」は、近代になって人間の科学的な研究が進むと共に急増し、多様なバリエーションが提唱されてきた。 たとえば「人間の能力や性格は遺伝によってすべて決定されている」という考え方がある。このような主張は「生物学的決定論」ないし「遺伝決定論」に属する。一方「人間の能力や性格は幼少時の成育環境によってすべて決定されている」のような考え方もあり、これは「環境決定論」の一種である。 今述べたタイプの決定論は、知能や性格などが「固定されていて変えようがない」という主張であり、このタイプの「遺伝決定論」から「人間は遺伝子の操り人形だ」というタイプの「遺伝決定論」がストレートには引き出されるわけではない(間接的に引き出されることはある)。 一方、「人間は××の操り人形だ」式の主張、あるいは(先の定義に当てはめれば)「人間の思考や行動はすべて××によって決定されている」のような主張をはっきり打ち出す立場もいろいろある。 心理学の歴史を見ると、たとえば「人間の意識的な意志はすべて無意識の衝動によって決定されている」というフロイト主義的な決定論や「人間の行動はすべて環境から与えられた『条件づけ』によって決定されている」という行動主義心理学にもとづく決定論が(必ずしも専門家の共通見解ではなくとも)提唱されてきたことが分かる。 一方の「宇宙についての決定論」だが、実を言えば、歴史的な順序としても、考え方としても、こちらの方が「人間についての決定論」よりも昔からある。じっさい、単に「決定論」と言えばこちらを指すのだ。そしてこの思想を他の「決定論」と区別して呼びたいときには「因果的決定論」という用語を用いる。 因果的決定論は中学や高校で学ぶ「古典力学」から導かれる。古典力学にしたがえば、この宇宙の出来事の経過は、数学的に表現される宇宙のすべての状態と、その状態にもとづいてそれ以後の状態を定める自然法則(ないし物理法則)のみによってすべて決定される、という主張が導き出される。 この主張こそが宇宙についての「因果的決定論」である。 このように、因果的決定論は宇宙のあり方についての主張だが、しかしまたこの主張を受け入れた上で、人間、あるいは人間の心がこの宇宙の一部分である、という事実を真面目に受け入れるとき、「人間についての決定論」としての因果的決定論も導き出される。 この意味での因果的決定論は、先ほど紹介したさまざまな「決定論」と同じく「人間の△△はすべて××によって決定されている」という形式に当てはまる。△△と××に適切な言葉を代入すれば、「人間の行動や思考はすべて自然法則によって決定されている」という主張が、「人間についての因果的決定論」である。 「当たり前じゃないか」と思う人もいるだろう。自然法則に反する出来事とは魔法か奇跡のたぐいであって、要するに存在するはずのない出来事だ。人間、あるいは人間の脳だって自然の一部なのだから、当然自然法則に従っているはずじゃないか……と、思う人は思うだろう。もっともな反応だ。 だが、このような人間についての因果的決定論を、宇宙についての因果的決定論と重ね合わせ、その意味するところをよくよく検討すると、不穏な帰結が導かれてくる(ように見える)。(続く) レビューを確認する 第3回では、因果的決定論を突き詰めて考えると行き当たる「不穏な帰結」について考える。「脳内の神経」という自然法則に支配されている私たちに、自由意志はあるのか?
Taizo Kijima