明朝の「特攻」出撃を告げられた「18歳の少年」が、上官から「書け」と言われて書いた「遺書の内容」
爆撃に成功して生還した後藤は上官から4時間の叱責...
司令の玉井浅一中佐は、かつては情の厚い、部下思いの指揮官として知られていたが、特攻出撃を積極的に推進する立場になってからは、敵を発見できずに引き返してきた特攻隊員を罵倒し責め立てるなど、精神の平衡を欠いてきているのが傍目にもわかる。 ラバウルの二〇四空副長やマリアナの二六三空司令を務めていた頃以来の、馴染みの深い子飼いの部下は、たとえ志願してきても特攻に出そうとしない。 「特攻隊の編成を発表するとき、整列した搭乗員のなかで思わず目を伏せたようなのが名前を呼ばれ、傲然と玉井の目を睨み返しているような搭乗員は選ばれない」 と、角田少尉が回想するように、玉井の人選は、搭乗員から見ると人が悪いところがあった。 この日の昼過ぎ、第十九金剛隊の爆装機のうち、後藤喜一上飛曹機が爆弾を投下し、体当りせずに還ってきた。爆弾は敵輸送船に命中したという。だが後藤が指揮所に報告にくるや否や、玉井と中島から激しい怒声がとんだ。 「特攻に出た者が、なんで爆弾を落としたか!」 というのである。後藤は、作戦室を兼ねた防空壕に連れ込まれ、2人から4時間にわたって叱責され続けた。そして夕方、エチアゲから出撃しマバラカットに着陸してきた第二十一金剛隊の零戦に乗って、こんどは第二十金剛隊の一員としてふたたび出撃することを命ぜられ、そのまま還ってこなかった。 後藤上飛曹は、マーシャル、硫黄島の激戦を戦い抜いた歴戦の搭乗員で、いつもニコニコと笑顔を絶やさない少年だったが、防空壕から引きずり出されたときは、別人のようにやつれ果てた姿だったという。 マバラカットでもマニラでも、すでに食糧は不足している。この頃になると食事は、朝、昼、晩ともにサツマイモだけ、直径60ミリほどのものなら1本、30ミリほどのものなら2本が支給されるに過ぎない。これから特攻に出撃する搭乗員にのみ、大きいサツマイモ2本と塩湯が供された。 1月7日には、第二十八金剛隊8機(直掩機8機)、第二十九金剛隊3機(直掩機3機)がルソン島中北部のエチアゲ基地から発進、1月9日、ニコルス基地から第二十四金剛隊7機(直掩機5機)、ルソン島北東部のツゲガラオ基地から第二十五金剛隊4機(直掩機4機)、第二十六金剛隊2機(直掩機3機、ただし2機は未帰還)が発進し、これを最後にフィリピンにおける組織的な特攻隊の出撃は終わりを告げた。 特攻隊が壮絶な戦いを繰り広げている間にも、地上員の山ごもりの準備は着々と進められていた。陸軍部隊との協議の結果、海軍はピナツボ山麓の「十一戦区」から「十七戦区」まで7つの地域に複郭陣地を構築することが定められ、それぞれに配置される部隊が決められた。 航空隊や対空砲台、設営隊、フィリピン近海で撃沈された艦艇の乗組員などが全て陸戦隊となってこのなかに組み入れられ、糧食や弾薬を山中に運ぶ作業は夜を徹して行なわれた。 大西中将のトランク2個や、門司副官の荷物なども、最小限の身の回りの品を残して、隊員たちの手で全て山中に運び込まれた。 角田和男少尉や小貫貞雄飛長など、特攻隊の搭乗員も例外ではない。陸上戦闘の経験のない搭乗員たちは、手榴弾の投擲訓練をふくめ、山にこもる準備を始めた。小貫飛長は語る。 「飛行服を脱ぎ、草色の第三種軍装に編上靴、ゲートル、拳銃2丁、戦死者の遺品から頂戴した日本刀を腰に差した、なんともお粗末な陸戦姿でした。陸上戦闘の怖さを知らないわれわれは、仲間と刀を振り回し、『俺は宮本武蔵だ』などと、田舎芝居の役者気取りでした。私は飛行兵長でしたが、よその部隊の兵隊になめられないようにと、二階級上、下士官の一等飛行兵曹の階級章をつけていても、誰にも文句を言われませんでした」 ――もはや軍紀も緩み切っていたのだ。(続く)
神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)