明朝の「特攻」出撃を告げられた「18歳の少年」が、上官から「書け」と言われて書いた「遺書の内容」
「飛行長、クルクルパーになっちゃった」
昭和20年の正月が明けた。元旦早々、クラークは米軍の大型爆撃機B-24の編隊による絨毯爆撃を受けた。マバラカット西飛行場の、バンバン川に面した崖が爆弾でくずれ、崖につくられた防空壕にいた大勢の整備員と、数名の搭乗員が生き埋めになった。 1月4日から5日にかけて、空母をふくむ艦隊に護衛された敵の大輸送船団が、ルソン島の西側を北上しているのが索敵機により確認された。敵はマニラ湾外を北上し、かつて日本軍がそうしたように、リンガエン湾から上陸してくるものと予測された。 敵がリンガエン湾に向かうことがいよいよ確実になった1月5日から6日にかけて、海軍航空部隊はこの敵船団に向け、総力を挙げて体当り攻撃をかけた。 1月5日、元山空から増派された金谷真一大尉を指揮官とする第十八金剛隊16機(別に直掩機4機)は、マバラカットを発進、ルバング島西方の輸送船団に体当たりし、小型輸送船3隻撃沈、1隻撃破の戦果を報じた。また同じ日、七六三空の彗星で編成された旭日隊6機(別に戦果確認機1機)もマバラカットを飛び立ち、大型輸送船1隻轟沈、1機は敵空母に命中、と報告している。この日は別に、陸軍特攻隊も出撃していて、米側記録によると、1月5日の損害は豪重巡「オーストラリア」、米護衛駆逐艦「スタフォード」が大破したほか、護衛空母2隻、重巡1隻、水上機母艦1隻、駆逐艦2隻、歩兵揚陸艇1隻、曳船1隻がいずれも損傷を受けたとある。 1月6日、敵の先遣隊がリンガエン湾に侵入、艦砲射撃を開始すると、それを迎え撃つため、第十九金剛隊15機(直掩機2機)、第二十金剛隊5機(戦果確認機1機)がマバラカットから、第二十一金剛隊8機(直掩機8機)がエチアゲから、第二十二金剛隊五機がアンへレスから、第二十三金剛隊9機(直掩・誘導機7機)がニコルス基地から、旭日隊の彗星2機がソビとマバラカットから、夜間には八幡隊の天山8機がクラークから、それぞれ体当たり攻撃に発進した。陸軍の特攻隊の戦果もあわせて、この日の米軍の被害は、掃海駆逐艦「ロング」沈没、戦艦「ニュー・メキシコ」「カリフォルニア」ほか重巡3隻、軽巡1隻、駆逐艦3隻がいずれも大破、駆逐艦4隻、高速輸送船1隻、掃海駆逐艦1隻がいずれも損傷、というものであった。 マバラカット基地からの特攻出撃はこれが最後になるが、この日の朝、二〇一空飛行長・中島正中佐は、指揮所前に全搭乗員を集合させ、 「天皇陛下は、海軍大臣より敷島隊成功の報告をお聞き召されて、『かくまでやらねばならぬということは、まことに遺憾であるが、しかし、よくやった』と仰せられた。よくやったとは仰せられたが、特攻を止めろとは仰せられなかった。陛下の大御心を安んじ奉ることができないのだから、飛行機のある限り最後の一機まで特攻は続けなければならぬ。飛行機がなくなったら、最後の一兵まで斬って斬って斬りまくるのだ!」 と顔面を蒼白にひきつらせ、軍刀を振り回して訓示した。それはもはや、「訓示」というより「絶叫」といったほうがふさわしかった。 角田和男少尉は、この中島の様子を見て、 「ついに飛行長、おかしくなってしまったか」と暗然とした気分になった。 解散が令せられ、搭乗員が三々五々、それぞれの居場所へと散っていくとき、角田の傍にいた秋月清上飛曹が、右手の人差指を頭の上で回しながら、 「飛行長、クルクルパーになっちゃった」 と、大きな口を開け、あっけらかんとした調子で言った。その秋月の瞳にも、すでに尋常ではない光が宿っている。直掩に爆装に、幾度も特攻出撃を繰り返し生還した秋月は、そのトラウマからか心を病み、戦後は長く精神病院で過ごすことになる。