明朝の「特攻」出撃を告げられた「18歳の少年」が、上官から「書け」と言われて書いた「遺書の内容」
「副官、散歩に行こう」大西中将の覚悟
昭和19年、暮れも押しせまると、いよいよルソン島の陸上戦が近いことが予想され、大西瀧治郎中将は、報道班員たちを内地に帰すことを考えた。大西は、南西方面艦隊附から第一航空艦隊附になっていた毎日新聞の新名丈夫記者を呼び、特攻隊の様子を内地に伝えることを命じて、「第一航空艦隊から出張」という名目で内地に帰らせた。 いまや東條内閣は退陣し、小磯内閣に代わっていたが、かつて、「竹槍事件」(「東条英機」が激怒した…「竹槍では戦えぬ」と「大本営発表」に疑問を呈した「毎日新聞の記者」に「届いたモノ」)で東條英機の怒りを買い、陸軍に懲罰召集された新名をそのまま帰すと、ふたたび召集される恐れがある。「出張」という名目にしたのはそのためだった。新名が道中、不自由することのないよう、大西は「通過各部隊副長」宛てに、「道中御便宜取計相成度」との添え書きを持たせた。 大西中将が、陸上戦に備えて陣地構築の下見に出かけるようになったのは、その頃のことである。ある日、夕方になって大西が門司親徳主計大尉に、 「副官、散歩に行こう」 と言い出した。この日は、バンバン川に面する小高い丘からクラーク平原を望んだだけで、1時間半ほどの散歩だったが、 次の日も、大西は午後3時頃、「散歩に行こう」と、門司を連れ出した。 2人とも、軍刀も拳銃も持たない丸腰のままである。 この日は、司令部の丘の南から、バンバンの集落に寄ったほうの道を西に向かった。 「長官はゆっくりした足どりで、飛行靴を一歩一歩踏みしめて歩いた。少し痩せて、心労が背中からにじみ出ているかのようでした」と、門司は回想する。 1時間ほど歩いたところで、 大西は、「ここを登ってみよう」と、少しきつい丘の斜面を登り始めた。 尾根についてみると、バンバンの町が左手に、うねったバンバン川の向こうには、マバラカット東、西の飛行場、舗装されたクラーク中の滑走路が見わたせた。目を右に転じれば、重なり合った低い山が続いていて、その奥は深い谷のように落ち込み、さらに向こうのピナツボ山(標高1745メートル)につながっている。 大西は、黙ってこの風景を眺めていた。 門司は、大西が山ごもりの陣地構築を考えていることに気づいた。指揮下にある航空部隊には1万人を超える将兵がいるが、陸上戦闘に必要な兵器を持っていない。いよいよ航空兵力が尽きたら、大西は、この山岳地帯で、持久戦、ゲリラ戦を考えているのに相違なかった。 大西は山のほうを眺めながらしばらく歩き回っていたが、ふと門司を振り返ると、 「副官は剣道何段だ」と言った。 「三級です」 門司が答えると、大西は、 「三級は心細いな」 ニヤリと笑った。門司は、大西の言わんとすることをすぐに察した。この山のなかで、長官を介錯することがほんとうに起こるのだろうか。門司は胸を締めつけられるような思いがしたが、それが過ぎると、なにかありそうにないことのようにも思えた。 登ってきた尾根の反対側は、短い草が生え揃った、芝生のような斜面であった。下のほうは潅木が生えているが、ここを通ればバンバンの集落への近道のようだった。 「こっちから行けるかな」 「行けるかどうか、見てきます」 門司は、草の斜面を駆け下りた。潅木の先は2メートルほどの崖になっているが、下りられないことはない。 「大丈夫です!」 下から門司が大声で言った。大西は、斜面を少し下りかけると、急に草の上に横になって、その斜面をまるで子供が遊ぶように、ゴロゴロと転がって下りてきた。思いがけない長官の行動に、門司は驚いた。 大西は、門司の傍らまで転がってきて止まると、草の上にゆっくりと胡坐をかき、少しあみだになった帽子のまま、ニヤニヤとなんともいえない顔で門司を見上げた。門司は、人懐っこい気分になり、大西に手を差し伸べた。門司の手につかまって、大西は、どっこいしょと立ち上がった。大西の軍服についた草を払いながら、門司は、 「長官の首は、骨が太くて切りにくそうです」 と言った。大西は、 「そうか、骨が太いか」 ひと言いって、それ以上、なにも言わなかった。 門司を伴にしての散歩はこの2回だけだったが、大西はその後も、小田原俊彦参謀長や二十六航戦の吉岡忠一参謀、二航艦の宮本実夫参謀などを連れて、本格的な複郭陣地の検討に入った。