明朝の「特攻」出撃を告げられた「18歳の少年」が、上官から「書け」と言われて書いた「遺書の内容」
18歳で書いた遺書
割り切れない思いを胸に、小貫は、宿舎に用意された藁半紙に、鉛筆で遺書を書いた。両親、兄弟、親戚、恩師、脳裏に浮かぶ人はたくさんいたが、感謝の思いを言葉にしようにも、なかなか思うに任せない。結局、小貫の遺書は、 〈遺書/大和男の子と生まれ来て/明日は男子の本懐一機一艦/親に先立つ不孝お許しください/天皇陛下万歳〉 と、ぶっきらぼうなほど短いものとなった。 「天皇陛下万歳っていうのは、まあ決まり言葉ですね。ちょこちょこっと書いて最後にそう付け加えれば、なんとなく格好がつく。虚勢ですよ。顔で笑って心で泣いてという言葉そのままです。空戦でも死ぬかもしれないが、それは自分が生きて相手を倒すことが目的ですから、特攻で死ぬ覚悟を決めるのとは全く違う。自分の腹のなかを整理するのが大変でした」 と小貫(戦後、杉田と改姓)は私に語っている。
無言で出撃した同級生の最期
12月16日、飛行場に出て、黒板に書かれた当日の編成表(第十一金剛隊)を見ると、山脇の名前はあったが、飛行機の準備が間に合わなかったのか、小貫の名前はそこにはなかった。 「一瞬、選に漏れた無念と、今日は生き延びたという本能の喜びが交錯しましたが、第二小隊に名前があった山脇の顔を正視できない思いでした。それでもみんなと一緒に訓示を聞いて、山脇と一緒に指揮所から飛行機の秘匿場所まで1.5キロほど歩きました。飛行機に乗る間際になって、山脇から、これを届けてくれと遺書と髪の毛と爪の入った小さな紙の包みを渡されました。山脇が飛行機に乗り込むとき、私は一緒に左主翼の上に乗って、試運転の爆音のなか、『おい、なにか言っておくことないか』と声をかけたんですが、彼は黙って首を振るばかりでした」 山脇飛長は、この日の出撃からは生還したが、12月29日、第十五金剛隊の爆装機としてミンドロ島南岸沖の敵輸送船団攻撃にバタンガス基地から出撃、戦死した。 山脇の自爆の状況を、荒井敏雄上飛曹が確認している。荒井が私に語ったところによると、山脇は離陸後、風防のなかでずっと顔をくしゃくしゃにして泣いるのが見えて、かわいそうでならなかったという。しかも、敵船団を発見し、山脇機は敵巡洋艦後部に突入、命中するのが見えたが、爆弾が不発に終わったらしく、敵艦からは煙ひとつ立ち上らなかった。山脇は出撃後、爆弾の信管の発火装置の留め金をはずし忘れたものと思われた。