明朝の「特攻」出撃を告げられた「18歳の少年」が、上官から「書け」と言われて書いた「遺書の内容」
今年(2024年)は、太平洋戦争末期の昭和19(1944)年10月25日、初めて敵艦に突入して以降、10ヵ月にわたり多くの若者を死に至らしめた「特攻」が始まってちょうど80年にあたる。世界にも類例を見ない、正規軍による組織的かつ継続的な体当り攻撃はいかに採用され、実行されたのか。その過程を振り返ると、そこには現代社会にも通じる危うい「何か」が浮かび上がってくる。戦後80年、関係者のほとんどが故人となったが、筆者の30年にわたる取材をもとに、日本海軍におけるフィリピン戦線での特攻と当事者たちの思いをシリーズで振り返る。(第2シリーズ第6回) 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…! 前回記事:<じつは「戦果」が目的ではなかった…「特攻」を強行した大西瀧治郎中将の意外な「真意」>
突然の特攻命令
昭和19年10月末、福留繁中将の特攻志願の呼びかけに対して、周囲につられてつい一歩を踏み出してしまった第二二一海軍航空隊の小貫貞雄飛長に、特攻部隊である第二〇一海軍航空隊への転勤が命ぜられたのは、同年12月15日のことである。 「そのとき、私はクラークのアンへレス北飛行場にいました。夜10時頃、搭乗員室に要務士がやってきて、私と山脇林(はやし)飛長の2人に転勤が言い渡されました。それで、深夜のマニラ街道を、ライトを消した黒塗りのフォードに乗せられて、マバラカットの二〇一空本部へ連れていかれました。 二〇一空では、中島正飛行長が、よく来てくれたと迎えてくれ、従兵が皿に乗せたぼた餅を運んできてくれました。 そして、それを食べ終わるか食べ終わらないかのときに、飛行長から、『明朝黎明発進』を告げられたんです。ドキン!としてぼた餅を喉に詰まらせそうになりましたよ。こっちはまだ、口がもぐもぐ動いているのに。 で、遺書を書いて用意せよと言われるんですが、まだ18歳の子供ですからね、いきなり遺書を書けと言われても、いざ明日、死ぬときの心境なんて、すぐには言葉に出てこないし、実感が湧かない。 山脇と2人で、『俺は空母をやるぞ。お前は戦艦をやれ、あれは硬くて跳ね返されるぞ。だから艦橋を狙うんだ。当たった瞬間は痛いだろうな』…………などといろいろ話をしながら、少しうとうととしたらもう朝でした」