「峠を決め込む」の語源となり後世に汚名を残した僧兵武将【筒井順慶】
戦国時代以降に使われるようになった比喩に的な表現に「洞ヶ峠(を決め込む)」という言葉がある。「有利な方に付くために形成を見る」というほどの比喩であり、他には「日和見(ひよりみ)」とか「風見鶏(かざみどり)」とかの同意語がある。 その語源は、天正10年(1582)6月の本能寺の変の後、明智光秀と羽柴秀吉との間に起きた「山崎の戦い」で、大和郡山城主・筒井順慶(つついじゅんけい)が「洞ヶ峠(京都府八幡市と大阪府枚方市の境にある峠)」に陣を敷き、どちらに味方するか戦況を見極めていたことに由来する、とされる。 しかしながら、この語源に関しては事実からかけ離れている。というのも、この合戦の前に順慶は自らの居城・大和郡山城に籠もっていて、洞ヶ峠には布陣していないからだ。もちろん、記録にも残されていない。それなのに何故、順慶が「洞ヶ峠(日和見)」を決め込んだとされるのか。史実に反するのに、順慶はその意味で濡れ衣を着せられた「冤罪」の被害者ともいえる。 筒井順慶(幼名・藤勝)は、天文18年(1549)、筒井順昭の子として奈良で生まれた。父・順昭(じゅんしょう)は奈良・興福寺の僧兵のトップであったが、順慶が生まれて2年後に大和統一の宿願を果たした直後に病死した。順慶はわずか3歳で筒井家の当主になった。その幼主を支える筒井党は、興福寺の僧兵出身者であり戦さにも強かったが、その僧兵集団を上回る武将が現れた。同じ大和・信貴山城の松永秀久(まつながひさひで)である。久秀は、筒井城を圧迫した。 成長した藤勝(ふじかつ/順慶)は18歳の時に興福寺成身院で得度(とくど)して「陽舜房順慶」と名乗った。父同様に、僧衣を着て鎧を付けるという僧衣の武将である。金襴の袈裟を掛けて猩々緋で縁取りをした頭巾を被って合戦に出た。 何度か松永軍と戦った順慶は、それでも2度までは勝ったが、永禄11年(1568)に筒井城を奪われてしまった。そうした抗争を繰り返すうちに、松永久秀は織田信長の臣下になっていた。そんな折に、順慶の後ろ盾になったのが明智光秀であった。光秀の取り成しで、順慶も信長の傘下に入った。そんな時期に、信長に反旗を翻した久秀は、1度は許されたが、結果として2度目の反逆で自滅する。 順慶は信長から大和一国の支配を認められた。こうして大和郡山城が、順慶の居城となった。子どものなかった順慶は養子・定次(さだつぐ)を迎え、その正室として信長の養女・秀子を迎えたことで、信長と縁戚関係になった。 そして「本能寺の変」である。順慶は、信長の命令で光秀の組下として備中出陣のため、居城を発ったところだった。変報を聞き、郡山城に兵糧を運ばせて、籠城の準備をした。そこに、光秀・秀吉双方から援助要請の使いが来た。一時は、光秀の要請に従って3千の兵で出陣したが、光秀に近い細川藤孝・忠興父子や高山右近などが光秀味方しないことが分かり、心が揺らいだ。それを知った光秀は、威嚇のために京都・大坂を一望できる「洞ヶ峠」に陣を敷いた。だが、結果として順慶はs秀吉と密約を交わし、籠城を続けた。そして光秀が敗れた。つまり、日和見ではあったが「洞ヶ峠」に順慶はいなかったのである。 秀吉の臣下に収まった筒井家は無事だったが、順慶は2年後の天正12年8月、郡山城で病死した。享年36であった。
江宮 隆之