「オ骨拾ヒ」「オ骨受取」…女子生徒13人の命を奪った焼夷弾、 教務日誌がつづる戦禍〈鹿児島大空襲79年〉#語り継ぐ爪痕
芝生の広がる鹿児島市中央町の共研公園に、傷ついた古い石造りの門柱が2本、空に向かって突き出している。市立女子興業学校(現鹿児島女子高校)のもので生徒13人が焼夷(しょうい)弾による火災などで命を落とした。 【写真】生徒13人が大空襲で命を落とした旧鹿児島市立女子興業学校の門柱=鹿児島市中央町の共研公園
大空襲のあった1945年6月17日から始まる、同校の「教務日誌」が残っている。 「午後十一時十分頃麑市未曽有ノ大空襲アリ」 「寄宿舎ニハ當日防空要員五十四名ノ生徒在泊セシガ、之等モ大多数辛ウジテ逃ル、サレド十名ニ余ル死傷者ヲ出セシ…」 火傷生徒や行方不明者として名前が列記。21日には「焼死生徒ノ遺骨ヲ拾ヒ、夫々適当ナル壺ニ納メ、校庭西寄防空壕内ニ安置ス(午後一時)」と記す。 惨禍から1週間ほどは「オ骨拾ヒ」「オ骨受取」などの文字が目立つ。教え子の遺骨を拾う教師の姿が浮かぶ。無念の作業を淡々とつづった文面は、戦争の悲惨さを一層浮き彫りにする。わが子の安否を気遣う生徒の家族が度々、学校を訪ねて来る。「○○ノ父来校、オ骨ヲ受取ラル」 共研公園には、被災の歴史を伝える石碑や門柱と共に、当時の石畳や石塀も残されている。 ◇ ◇ ◇ 2000人を超える死者を出したとされる鹿児島大空襲から17日で79年。見渡す限りの焦土となった古里の記憶は、時代の流れと共に薄れつつある。高層ビルが立ち並び、都市へと生まれ変わった街を歩き、今なお残る空襲の爪痕を探した。
南日本新聞 | 鹿児島
【関連記事】
- 石蔵は焼夷弾の猛火に包まれた。力の限り打ち鳴らされた半鐘は孫に伝わる…「戦争はむごい」。赤黒く焼けた石塀は今も、物言わず語る〈鹿児島大空襲79年〉#語り継ぐ爪痕
- 「人はまるで、火の海をさまよう魚の群れだった」 鹿児島大空襲から79年、炎の中を母と2人逃げ惑った女性が記憶をたどる
- 戦争を知る人がいよいよいなくなる…危機感抱く87歳が「語り部」活動を本格スタート 小学校を巡り体験や証言伝える
- 米軍機による戦艦大和爆撃の映像を初公開 大分の市民団体 鹿児島、宮崎の日本軍飛行場を攻撃する記録も
- 不正を許さず、反戦を貫いた孤高の90歳は、余命宣告を受けた。「気候変動や災害…戦争をやってる場合か」 自然保護の願いを大事に集めてきた貝殻に託す。「思いよ、若い世代へ」