打球の行き先はボールに聞いてくれ・加藤秀司さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(30)
プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第30回は加藤秀司さん。1970年代の阪急(現オリックス)の黄金期には主軸打者として活躍しました。ある打撃成績では、王貞治さんを抑えて歴代2位の通算記録を誇っています。(共同通信=栗林英一郎) 【写真】打席に立つ大谷「ハリウッド映画のよう」米メディアも相次ぎ速報 3月
▽高校時代のドラフト指名は連絡も何もなし 静岡市内に行くのに1時間半ぐらいかかる、海の方(現在の牧之原市)の田舎で生まれた。5男5女で8番目の五男。野球をやってなかったら高校進学はしてないやろね。料理学校とか専門の道に進もうかなというのはあった。それも本格的に考えてはいなかった。きょうだいは多いし、田舎に残っていても仕事はなく、どっか遠い所へ行って自分で仕事を見つけて就職したらどうや、という感じ。 何で大阪のPL学園から誘われたのか、全然分からなくて。PLは宗教団体で全国に支部があり、そういう関係の人から話があったんやないかな。取りあえずセレクションっていうんかな、50メートル走とか遠投とか、それに参加してほしいと。母親と一緒に行ったんですよ。浜松から夜9時に鈍行列車に乗って大阪に朝7時に着いた。外国に行ったみたいだったね。静岡弁から大阪弁に変わったんだから。球場が2面で、外野が芝で、うわあ、すごい施設やなってびっくりした。母親は全寮制をえらく気に入ってしまって。ここに預けとったら安心だって思ったんじゃないですかね。同期は東京から1人、茨城から1人かな、熊本から2人、広島から1人、名古屋から1人か2人、そういうふうに全国から来とった。
高校2年ぐらいから松下電器(現パナソニック)に、プロへ行かなかったら来てくれって言われとったんです。もう就職決まっちゃってるやん。3年の時は、やっぱり気合が入らんかったね。そういうこともあったのか(選手として)思ったよりも伸びなかったかな。 今みたいにドラフトで指名されたら100%入団じゃなかった。明くる日、誰かが新聞を見て「おい指名されてるぞ」っていう時代ですわ。(高校時代の東映からの指名は)いきなり。連絡も何にもないよと言われて。東映に行ったってレギュラーを取れるかどうか分からへんし、向こうからあいさつも何もなしやし。コーチの人に、念のために契約金がいくらか、どういう条件か聞いてくださいと言ったら、全然低かった。パナソニックは今もすごいけど、50何年前も高校から松下電器に就職って、なかなかできないんでね。 ▽西本幸雄監督の一番良かったところ 松下に入社した年にピッチャーをちょこっとやったんですけども、やっぱり駄目や思うて2、3カ月でやめてしまって打者に転向した。(68年のドラフトは)阪急から2位でいくと言われ、条件も良い条件をもらった。どうせ何年かやって駄目やったら、やめりゃええと思って入団した。その頃って各球団に右のサイドや下から投げるピッチャーが3、4人いたんですよ。エース級も。それを打ちやすいという話で、当時は左バッターが結構ドラフトされとるんです。「こんな人が行くの?」っていうような人まで下位の方で指名された印象がありますね。そういう意味で左バッターは貴重だから良い評価をもらった。力があったのかどうか分からんけども。