打球の行き先はボールに聞いてくれ・加藤秀司さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(30)
ヒットを狙うとかホームランを狙うとか、僕は一切したことがない。とにかくバットの芯に当てて、行き先は球に聞いてくれと。手首の使い方は結構うまいこと自由にできたから、どんなボールが来ようが芯で捉えることができた。だから練習用のバットなんか折ったことないです。良いスイングで芯に当てとったら、それがライナーになったりゴロになったりして野手の間を抜いていける。角度が良かったらホームランになる。 (阪急に同期入団の)福本豊さんがフォアボールとかヒットで出たら、もう盗塁、盗塁と3球ぐらいでサードに立ってるからね。こっちは1点取るには簡単や。外野フライを打ったら取れる。歴代2位の105犠飛は打率を重視しとったから。(打数に加えない)犠牲フライは1打席、得するんやもん。基本的に思っているのは3打数1安打。4打数2安打は、そんなに打てない。2本先に打ったら4打席目をどうしていくか、3打数2安打にするか、そういうふうな考え方を常にしていた。
(通算打率は2割9分7厘で)3割は打ちたかったねえ。でも、途中からなんぼヒットを打ったって上がりゃせん。何千打数何安打やから。もう一つの悔いは(79年に阪急の後期優勝後の)消化試合で近鉄のマニエルにホームランを2本打たれて三冠王を逃したこと(3割6分4厘と104打点の2冠で、35本塁打は2位)。消化ゲームやから何とかしてほしかった。野球人生の中で一番悔いが残るのは、それです。取れていれば、落合博満より前やからね。 × × × 加藤 秀司氏(かとう・ひでじ)大阪・PL学園高―松下電器から1969年にドラフト2位で阪急に入団。3年目から中軸打者となり、75年からの3年連続日本一に貢献。83年から広島、近鉄、巨人と移り、南海時代の87年5月に名球会入り条件の2千安打に到達。同年限りで引退。首位打者に2度、打点王には3度輝いた。日本ハム、中日などでコーチを務めた。48年5月24日生まれの75歳。静岡県出身。