朝ドラ『虎に翼』が描かなかった寅子の晩年 モデル・三淵嘉子さんのその後の仕事と功績とは?
NHK朝の連続テレビ小説『虎に翼』が、9月27日に最終回を迎えた。日本初の女性弁護士の1人である三淵嘉子さんをモデルとした主人公・猪爪(佐田)寅子(演:伊藤沙莉)の半年間の物語が終わったのである。最終回では「それから」の時代を生きる娘・佐田優未(演:川床明日香)を中心に描かれた一方、寅子自身の晩年は描かれなかった。今回は本連載のエピローグとして、モデル・三淵嘉子さんの晩年をご紹介したい。 ■社会のため、人のために尽くし続けた生涯 『虎に翼』では、寅子自身のキャリアは昭和49年(1974)春に横浜家庭裁判所の所長に就任するところまで描かれたが、史実は少し異なる。三淵さんは昭和47年(1972)6月に新潟家庭裁判所の所長に就任。これこそが、日本における女性初の裁判所長の誕生となった。この時57歳だった。 その後、昭和48年(1973)11月に人事異動があり、浦和家庭裁判所所長に就任。4年もの間同裁判所長を務めた後、昭和53年(1978)1月に横浜家庭裁判所所長となった。同年2月には総理府(現内閣府)婦人問題企画推進会議委員、さらに昭和54年(1979)2月には法制審議会民法部会委員に選出され、多忙な日々をおくっている。そして同年11月、65歳の誕生日を迎えて、定年退官となった。 退官する前も後も、三淵さんのことを法曹界が放っておくはずがなかった。退官直前には自身も設立に携わり、長年支え続けてきた日本婦人法律家協会の会長に就任。さらに、同年には労働省(現厚生労働省)の男女平等問題専門家会議の座長にもなっている。この諮問機関での議論が礎となった結果制定されたのが、「男女雇用機会均等法」(1986年)だった。 三淵さんは昭和55年(1980)から夫である三淵乾太郎氏と共に弁護士として活動していたが、上記のような役職に就いて積極的な議論の場を展開しただけでなく、東京家庭裁判所の調停委員や参与員、非行少年の更生支援のためのボランティア団体「東京少年友の会」の理事など、多種多様な顔をもっていた。どれほど忙しかったか、想像に難くない。 三淵さんが常に大事にし続けたのが、家庭裁判所設立当時の最高裁判事・穂積重遠や初代家庭局長・宇田川潤四郎と共に掲げていた理念だった。「家庭裁判所はあらゆる人々を受け入れ、人間味のある温かな場でなければならない」、そして「非行にはしった少年たちにも適切な教育指導を経て豊かな未来を手にしてほしい」という思いを最後まで折に触れて語っている。その姿勢を端的に表す言葉を残している。「家庭裁判所は“人間”を取り扱うところであって、“事件”を扱うところではない」と。 女性初の弁護士の1人、そして女性初の判事、裁判所長と、法曹界における女性進出の最前線を走り続けた三淵さんが亡くなったのは、昭和59年(1984)5月28日のことだった。葬儀には時の最高裁判所長官といった法曹界のトップをはじめ、多くの関係者・友人が集まり、その数は2000人以上になったという。 今よりもずっと女性の権利が軽視されていた大正初期に生まれ、第二次世界大戦という過酷な時代を越えて、命ある限り世のため人のため、男女が等しく権利を享受できる社会を目指して尽くし続けた三淵さん。朝ドラのモデルとなったことで一躍脚光を浴びたが、今この時代だからこそ、改めて彼女の生涯を真摯に見つめる機会が巡ってきたように思われた半年だった。 <参考> ■清永聡『三淵嘉子と家庭裁判所』(日本評論社) ■神野潔『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター
歴史人編集部