腹八分、勝ちに来るな 21世紀に生きる金言 最強相場師・本間宗久(下)
現代のトレーダーたちからも、絶大な人気を博する江戸時代に活躍した相場師、本間宗久(そうきゅう)。大胆な投資技法のみならず、宗久の遺した金言の数々は、現代にも相場にも通じるものがあります。 宗久が親しい間柄でも決して見せるなと諭した「三昧伝」。その本当の意味とは何だったのか、市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
光丘と和解成立
本間宗久は本間家3代目当主、光丘に義絶されたあとは、江戸根岸に住み、「根岸本間」と呼ばれた。墓は坂本町(現台東区下谷)の随徳寺にあるが、晩年光丘と宗久の間で和解が成立する。その経緯は山口映二郎の『宗久翁秘録』にくわしい。 「宗久は相場で成功し、やがて本間宗家をはるかにしのぐ富を築いていったが、一方、実家の光丘もまた、着実に事業を伸ばしていき、酒田本間の影響力は東北諸藩全体に及ぶようになった。2人の場所を違えた成功によってたがいの才能を認め合い、尊敬し合うようになる。善兵衛や一族の者が江戸へ出てきた折りに、酒田の状況が詳しく伝えられ、光丘が酒井藩の財政改革に腕をふるったり、難民救済に力を尽くしていることを聞きつつ、宗久の心境は変化していった」 宗久は奔放だった青春時代を振り返りながら「おれがあのまま本間家の采配をふるっていたら資産ははるかに大きくなっていたかも知れないが、土地の商人や農民、藩との摩擦は避けられなかっただろう」などと考えた。周りとの調和を旨とする光丘の才を評価する余裕もできていた。 光丘もまた、江戸での叔父宗久の活躍ぶりに「やっぱりあの人は天才だな」と眩しい存在に思えるときもある。そして天明5年(1783年)光丘から宗久に和解の申し入れがあった。長い確執は終わった。宗久68歳。光丘54歳。
相場道は神経をすり減らす知的戦争
「天明の和解」以後も宗久はコメ相場をやめなかったが、大相場と見極めたときのみ出動した。目先の小相場を追うようなことはしなかった。相場道は神経をすり減らす知的戦争である以上、50歳を過ぎて体力、智力の衰えは宗久も避けて通るわけにはいかなかったであろう。いまも相場金言に欠かせない「休むも相場」ということを宗久は早くから言っている。 「1年中、商い手の内にある時は利運遠し。折々仕舞い候て、休み見合わせ申すべきこと第一なり」 年がら年中、建玉を持っていないと落ち着かない人は「建玉依存症」ともいうべき相場師の風上にも置けない人種で、単なる相場狂であり相場の奴隷である。相場師ではなく、「相場仕」で相場にお仕え申す人でしかない。宗久の言葉はウォール街の有名な金言「ウォール街は明日もある」と相通じる。ウォール街がなくなってしまうわけはないのだから時々「休め」と諭している。 宗久は「年中の内、両三度より外、商い致すところ、これ無きものなり」とも言う。相場というものは1年のうちで仕掛けるのは2、3だけだ、という。その代わり、仕掛けたときは建玉と心中するつもりで相場に集中しなければならない。「幾月も見合わせ、図に当たるころ仕掛けるべし。時々、気を転じ候は利を得ることならざるなり」 酒田に行くと、豪商・鐙屋(あぶみや)が復元されていて宗久の言葉が揚げられている。「相場天性自然理 算用不及事」(相場は自然に任せ、計算するには及ばない)とある。本間家ではなくてライバルの鐙屋に宗久の言葉が残っているのが興味深い。