藤井聡太名人の「勝負おやつ」に選ばれ大復活…名古屋の老舗和菓子店が廃業寸前からV字回復を遂げるまで
愛知県名古屋市にある「元祖 鯱もなか本店」は、1907年(明治40年)創業の老舗和菓子店だ。コロナ禍に廃業寸前まで追い込まれたが、あることがきっかけで売り上げがV字回復を果たした。4代目店主の古田憲司さんが書いた『鯱もなかの逆襲』(ワン・パブリッシング)から一部を抜粋・再編集してお送りする――。 【写真】藤井聡太名人も食べた「元祖 鯱もなか」 ■名古屋で100年以上も「鯱もなか」を売ってきたが… 僕と妻が4代目を務める「元祖 鯱もなか本店」は、1907年(明治40年)に妻の曾祖父(ひいおじいさん)である関山乙松(おとまつ)が名古屋市の御園町(現在の御園通)に開いたお店です。 創業当時は「ますや菓子舗(かしほ)」という店名でした。それが、1921年(大正10年)に発売した「元祖鯱もなか(以下、鯱もなか)」が大ヒット。瞬く間に看板商品となり、ついには現在の店名になりました。 名古屋城の天守閣に鎮座する金のしゃちほこをモチーフにした特徴的なフォルムと、こだわり抜いた素材による味わい、店舗で作って提供する出来立ての味が受けたのだと思います。 117年以上の歴史を誇る元祖 鯱もなか本店ですが、3代目であり僕の義父である関山寛は、自分の代でこの店を閉じようと決意していました。最初から、子どもたち(妻と義兄)に店を継がせる気がまったくなかったのです。理由はハッキリしています。それは、店を経営することがどれほど大変なことか、先代自らが身をもって体験してきたから。 事実、家族として先代の様子を一番近くで見てきた妻も、「小さい頃から両親が働く姿を見ていたし、本当に苦労していたのを実感していたから、絶対に自分はやりたくないと思っていた」と話していました。元祖 鯱もなか本店は静かに廃業に向けて歩を進めていたのです。
■コロナ禍で売り上げは全盛期の10分の1に 先代の「自分の代で店をたたむ」という気持ちは変わることなく、2019年を過ぎた頃から、少しずつ廃業の準備が進んでいきました。 新商品の開発は完全にストップ。商品を置いてもらうための新規営業もやめました。製造などを手伝ってくれていたパートさんにも事情を伝え、契約更新をしないことで話をしていました。結果、働き手は先代夫婦の2人だけに。業績は、2005年のピーク時(愛・地球博の開催年)と比べると半分以下になっていました。 そうした状況が続くなか、2020年に新型コロナウイルスのパンデミックが起こりました。この未曾有の事態によりマスク生活を余儀なくされ、不要不急の外出は控えなくてはいけなくなりました。人々の行動は制限され、飲食店や観光業界が大打撃を受けたことは記憶に新しいでしょう。もちろん、元祖 鯱もなか本店も大きな影響を受けました。 うちの商品は、約7割を駅やサービスエリア、空港、百貨店などの小売店に卸していて、大須の本店で販売をしているのは、ほんの一部です。そのため、コロナ禍で土産需要が一気に激減し、みるみるうちに在庫の山ができてしまったのです。 売り上げは、コロナ前である2019年の3分の1、最盛期と比較すると10分の1にまで落ち込みました。小さな規模ながらも、愛情を込めて作ってきた我が子のように大切な商品。それが山のように残っている現実。「70年生きてきて、こんな居たたまれない気持ちになったのは生まれて初めてだった」先代はいまでも顔を歪めてそう語ります。 ■うずたかく積まれた在庫の山に衝撃を受ける もはや、これまでか。誰もが諦めかけたそのとき、それまで沈黙を貫いていた妻の花恵が動いたのです。 「久しぶりに店の裏にある工場に立ち寄ったとき、賞味期限の近づいた商品がうずたかく積み上げられている様子を目の当たりにしました。正直、跡を継ぐつもりはなかったので、店の様子を見に行くこともほぼなかった。でも、このとき偶然目にした光景には衝撃を受けてしまって。父と母が一生懸命作った商品を、なんとか捨てないで済む方法はないか……、誰かに食べてもらえないか……、そう考えました」(花恵・談) 売れ残りをすべて廃棄してしまうくらいなら、安くてもいいから一人でも多くの方に食べてもらいたい。そんな妻の想いから、僕たちはある挑戦をすることにしました。コロナ禍によって売れ残りを抱えて困っている事業者が特別価格で販売し、消費者が「買って応援、食べて応援」するというコロナ支援サービス『WakeAi(ワケアイ)』に出品してみることにしたのです。