パラリンピックの魅力で社会変革:パリ大会選手団長・田口亜希さん 東京からパリへ障がい者の思い
パラリンピック経て変化した日本
─東京大会のレガシーとは何でしょうか。 東京大会は新型コロナウイルスが拡大する中で開催できたこと自体が成果です。それは日本だからこそ、可能だったことだと思います。私は大会招致、聖火リレーのアンバサダー、選手村副村長を務めました。期間中に各国の選手や関係者たちが日本への感謝を口にしていました。 そして、障がいのある人たちに対する日本社会の空気感や、雰囲気が少しずつ変わっていったことが挙げられます。 以前は、街の人たちが私たち障がいのある人に出会うと、少し遠巻きで、「大丈夫かしら?」と見守っている感じでした。今は車いすユーザーである私がその場にいても、それが普通で違和感もないという感じになり、声をかけられることも増えました。障がい者用のトイレや車いす用スロープが一般的になり、障がい者が街の中に出ていく場面が増えました。そして、パラスポーツの中継やテレビCMなどメディアでもパラアスリートを見る機会も多くなり、結果として障がい者を見慣れてきたことが大きいと思います。共生社会という言葉も浸透してきました。 私が病気で車いすに乗るようになった25年以上前は、周りには障がいのある人を見かけることが珍しかったし、障がい者は街に気軽に出られる状況ではありませんでした。私も、健常者の友達と一緒に行動するとトイレなどさまざまな面で迷惑をかけるのではという意識がありました。でも今は、街に出ても何とか乗り越える選択肢はあるだろうと思えるようになり、誰とでも一緒に出掛けやすくなったという変化があります。
小さな変革重ね、国全体に波及を
─長くパラリンピックに関わって、中長期的な大会の変化をどう感じていますか。パリに伝えたい東京大会の経験はどんなものでしょうか。 パラリンピックは少しずつステップアップし、変革が進んでいます。新聞報道を見ても、私が初出場したアテネ大会は、五輪はスポーツ面なのに、パラリンピックは社会面で福祉色が強い記事が多かったと記憶しています。今は競技性が高まり、パラリンピックも多くの結果がスポーツ面に載るようになりました。 一例ですがメダルも少しずつ進化しています。リオでは視覚障がいのある選手のためにメダル内に小さな金属の球が入っていて、メダルの色ごとに異なる音が鳴る工夫がしてあったが、東京大会は側面のくぼみの数を手て触れればメダルを区別できるようにしました。パリ大会は、縁に金は1本、銀は2本、銅3本のダッシュ記号を刻んでいます。 リオ大会を現地視察した時、車いす用の観客席の一部で目線の位置に柵があり競技が見えにくかったことに気が付きました。数センチ床や柵の高さを変えてくれればと思い、東京大会の組織委員会に「もう少し工夫しませんか」と話しました。 パリの関係者、パラアスリートも東京大会を見て、「ここは改善できる」と持ち帰り、向上させているはずです。そこで得たユニバーサルデザインや障がい者の利便性を高めるテクノロジーなどを国全体に浸透させ、一歩一歩、社会がより良くなっていけば良いと考えています。 それが東京からパリに伝えられることなのだと思うし、パリがどう試行錯誤をして大会をつくっているのか、現地で楽しみたいと考えています。