「延命治療はしない」と言った母の死が変えた田村淳さんの死生観
――どんな話をされたりしましたか。 母ちゃんは晩年、写真を大量にストックしていたんですけど、ベッド脇でそれを一枚一枚めくっては、当時のことを一緒に思い出し、それが楽しかったですね。 父ちゃんの実家の福江島(長崎県五島市)で子どものころ、きれいな青い海で海水浴したり、岬の灯台まで歩いたり、縁側ですいかを食べたり。そのときの日焼けした母ちゃんの顔を思い出します。また、母ちゃんの実家、別府(大分県)に帰省したとき、弟が高崎山で猿に襲われた。ああそんなことあったよねえ、と。 家族の日常のちょっとしたことが記憶に鮮明によみがえる。病床の母ちゃんも笑顔いっぱいでした。写真全部を見ることは結局できなくて、3分の1程度で終わっちゃいましたけど、残りの写真を見て、もっといっぱい親子で笑いたかったなあ。 最後、下関の天ぷら屋さんで両親とぼくと弟、ひさしぶりに4人で外食した際に記念写真を撮ったんですね。母ちゃんは亡くなる前、自分の葬儀を自分で取り仕切ったんですけど、棺桶に花を入れるのがどうやら嫌だったみたいで、かわりに、参列者に写真を入れてほしいと葬祭業者さんに細かく指示していました。 最後に、父ちゃんがくだんの天ぷら屋の写真を入れる段取りだったのですが、それも母ちゃんの発想。遺体に写真を添える父ちゃんの横顔を見て、ぼく胸がいっぱいになって…。母ちゃんは最後までやるなあと思いましたね。
――最後にお母さまと過ごしたのはいつですか。 2020年、8月10日の母ちゃんの誕生日にあわせて、妻と娘2人を連れて帰郷したときですね。仮退院して実家に戻り、介護ベッドに横たわる母ちゃんでしたが、生後2ヶ月の次女をそおっと抱いて、哺乳瓶でミルクをあげてくれました。 「かわいいねえ、かわいいねえ」と、まだふわふわした小さな頭をなでて、あやしてくれる。長女は「ばあば、お誕生日おめでとう」と、クレヨンで描かれたばあばの似顔絵を渡しました。この娘たちを会わせることができてほんとうによかった。 だけど、ぼくの心のなかは冷静じゃなかった。これが最後になるかもしれないという思い。いま振り返っても、お別れのあの場面は一瞬の出来事だったような気がするんです。 母ちゃん、こんなに痩せちゃって。握った手がか細くて薄かった。そしてあっという間に、東京へ戻る時間が来ました。これが最後かな、と思って家を出る瞬間がいちばんしんどかった。言いたいことは山のようにあるのに、伝えられない。これを逃したら最後なのに、これ以上なにか言うと、母ちゃんとの別れに、踏ん切りがつけられない。 夢を持ってぼくが上京するとき、(実家の)玄関を「行ってきます」と出ていった。昨夏、最後に母ちゃんに「行ってきます」と別れたんですけど。その「行ってきます」は前向きな言葉なんだけど、自分でもこう言えてよかったという気持ちもあるんだけど、できればこんな「行ってきます」は言いたくない、そんな複雑な思いでした。 外に出て振り返ると、母ちゃんの部屋にレースのカーテンがあって、その向こうでベッドから勢いよく手を振っていた。その光景は、いまも目に焼きついています。