「延命治療はしない」と言った母の死が変えた田村淳さんの死生観
コロナ禍の2020年8月、田村淳さんの母、久仁子さんは闘病のすえ、がんで亡くなった。享年72歳。 故郷・下関(山口県)に帰省するたび、看護師だった母から何度も聞かされた言葉は、「うちになにかあった場合、延命治療はせん」。淳さんはその意思を尊重し、母の“旅立ち”を手厚く見送った。 その体験が淳さんの死生観を変えたという。最愛の母との思い出、そして別離を聞いた。(中村竜太郎/Yahoo!ニュース Voice)
――お母さまはどんな方でしたか。 とにかく明るい母ちゃんで、人の輪を大切にする人。おしゃべりが大好きで、人を笑わすことも大好き。そこにいるだけで周囲や友人、家族をなごやかにしてくれました。 ぼくは下関市の彦島で生まれ、父ちゃんはタワークレーンの運転手、母ちゃんは地元の病院で看護師をしながら、ぼくと3歳年下の弟を育ててくれました。狭い社宅の団地暮らしで裕福ではなかったんですけど、自慢の母ちゃんがいつもそばにいてくれたおかげでしあわせな子ども時代でした。お腹がすくと、塩むすびや鳥の唐揚げ、手作りの麦みそから仕立てたみそ汁を作ってくれ、それが最高のごちそうでしたね。 夜勤や急患が多い看護師の仕事は、息子たちのことを考えてくれたのか、ぼくが小学校2年のときに辞め、かわりに近所のお肉屋でパートしたり、内職の仕事もしていました。 ぼくが小学校でいじめにあったときも母ちゃんが守ってくれ、ぼくが反抗期のときもしっかり向き合ってくれた。不器用で無口な父ちゃんにかわって、あれこれかまってくれるのは母ちゃん。18歳で芸能界を夢見て上京するときは猛反対されましたけど、最終的に背中を押してくれました。
――そんなお母さまに2015年、最初の肺がんが見つかりました。 母ちゃんから電話で告白されましたが、「心配せんでええよ」とこっちを気づかうばかり。手術するかどうかを問うと母ちゃんは一瞬黙り込んだんです。 そのとき、ぼくが20歳になったときから、「私の意思表示として、延命治療をしないでほしい」と言っていたのを思い出しました。ぼくの誕生日に毎年、この確認です。 長年、看護師として医療の現場にいたことも関係しているのかもしれません。人の死を身近に感じていて、たくさんの家族のお別れを見てきている。誰かのお見舞いに行くときも、普通、人は死についてあまり語りたがらないけれども、母ちゃんはこうやって死ぬとか、いつかお別れがくるんだと常々さとすように話してくれていました。けれど、1回目のがんのときは本人と相談して、手術を選択しました。