民主主義を機能させられないメディア 必要なのは“マスコミ”の新発明?
デモクラシーは「民主主義」にあらず?
デモクラシーを日本語にすると「民主主義」となっていますが、私にはとても違和感があります。「民主制」とすればいいのに、わざわざ“主義”を入れることで、固定的で何かに抗うような語感さえあります。英語には“democratism”という単語がデモクラシーとは別にあり、これは平民主義とか民主主義理論とされています。 先人たちにとっては、また君主制や身分制社会になるかもしれないという一種の危機感が民主主義という訳語を生み出したのかもしれません。しかし、私達は、民主主義という言葉に、既に出来上がっていて、とても柔軟性に欠けた印象を持っているのではないでしょうか。デモクラシーとは「民主制」(人民による支配)です。社会の基盤となる大切なものですが、ただの制度でもあります。この制度を使いこなすための重要な手段が「メディア」です。
国民一人ひとりが“王”である社会
日本に於ける主権は、私たち国民一人ひとりにあります。主権とは「国家の政治のあり方を 最終的に決める権利のこと」です。あえて別の言い方をすると、一人ひとりが“王”であることが国民主権です。王には名君も暗愚な王もいますが、この“王”は、わがままで不寛容な王ではなく、社会という船全体を背負う「船長」のような意識を持つ王です。 この“王”に正しく情報が伝わらないと国は衰退し、悪くすると滅びます。 現代社会は“王”が忙しいので、代理で議論し考える役割を、議員や内閣に託す形で運営されています。ですので、政治に何かを期待しても“王”の想像以上のアウトプットはまず出ないと考えるのが自然なことです。 つまり、民主制の生命線は“王”に情報を伝え、判断をサポートするメディアにあるのです。
「船頭多くして船山に登る」のことわざを想起して、そんなにたくさん“王”がいたら社会が混乱するのではという人もいると思いますが、国民主権の社会とは、全員が“王”となる素養を持つことを前提として、それぞれの持ち場で役割を分担する社会を指します。“王”は船長としてだけでなく、料理や医療、備品管理、観測など各機関の担当となることもあるのです。経営や軍事の領域では情報共有が組織のパフォーマンスに大きく影響することは常識となっています。情報が伝わらない状態を図にすると下図の様になります。