小林亜星さん死去 音楽とともにあった生涯
「北の宿から」はじめ数々のヒット曲で知られる作曲家で、主演ドラマ「寺内貫太郎一家」(TBS系)などで俳優としても親しまれた小林亜星さんが5月30日、心不全のため死去していたことが14日わかった。88歳だった。すでに葬儀は近親者のみで済ませたという。
疎開先では夜のハーモニカが唯一の娯楽だった
小林さんは昭和の時代から作曲家、俳優として第一線で活躍。流行歌をはじめCMソングやテレビドラマの主題歌などを数々手がけ、ドラマやバラエティー番組にも出演し幅広い年代に親しまれた。音楽とテレビ、芸能界が濃密な関係性を保った昭和から平成にかけて大衆に支持される作品を送り届けてきた小林さんはテレビの隆盛から衰退まで、まるごと歴史の生き証人ともいえる存在だ。 小林さんは1932(昭和7)年東京都の出身。子どもの頃から音楽が好きで、筆者が2019年8月に取材した際には「子どもながらジャズレコードを聴き『俺は将来こういう世界へ行く』と思ったんです」と懐かしそうに話していた。東京は杉並に住んでいたがやがて戦争が始まり、空襲がひどくなると長野県の小諸に集団疎開。成就寺という寺にみんなで住んだが、夜になるとハーモニカでいろんな曲を吹くのが唯一の娯楽だったという。
音楽に魅了され数多くの作品を生み出した生涯
昭和20年に終戦を迎えると、進駐軍とともにアメリカの音楽もやってきた。小林さんはレス・ブラウンが作曲を手がけた「センチメンタル・ジャーニー」のサウンドにすっかり魅了されてしまい、アメリカの音楽の虜になった。その後は父親の実家が病院だったこともあり慶應大学の医学部に進学するも学生バンド活動にのめり込み、朝鮮戦争の頃には横浜にあった進駐軍向けのクラブにビブラフォン担当で出演するようになったが、大学卒業後はいったん音楽とは無関係な銀座の製紙会社で営業の仕事に就いた。しかしその後、やはり自分には音楽しかないと会社をやめて作曲家の服部正氏に師事。自身も作曲家になると順調にキャリアを積んだ。 小林さんが手がけたレナウンのCMソング「ワンサカ娘」は弘田三枝子の歌唱でヒットし出世作となった。以後、CMソングを中心に活動し昭和44年には同社の「イエ・イエ」をはじめ「エメロンシャンプー」などのCM音楽作曲に対し第6回放送批評家賞(ギャラクシー賞)を受賞。湧き出るように次から次へと人々の記憶に残るメロディーを生み出し、最盛期は1日に3~4曲を作ったという。 そんな中、俳優としても一躍注目を集めたのが昭和49年から放送された向田邦子原作のドラマ「寺内貫太郎一家」。演技経験ゼロだったがいきなり主演、頑固親父ぶりで見事に役にハマり西城秀樹が演じた長男・周平との大喧嘩では西城が実際に腕を骨折して入院したこともあるほどの熱演となった。取材時、小林さんは当時を振り返り「向田先生のお父さんをモデルにしていたそうで、太っている俳優を探していたらしい。でも高木ブーさんは忙しく、フランキー堺さんも監督業を始めて映画をお撮りになっててそれどころじゃない。ドラマの音楽をやって放送局にも出入りしていた僕が目にとまっちゃって、『亜星がいいんじゃないか。太っているからアイツ出しちまえ』って乱暴な話で。41歳のときでした」と目を細めていた。 また、これからの音楽と芸能については「あまりいまの悪口を言いたくはないんですけどね」と断りつつ、「ネット時代になって世界的な現象なんだけど、老若男女誰もが知るヒット曲はなくなりました。一人ひとりが自分の好きなものを見つけて没頭する。他人が何が好きかは関係ない。個々の好みの世界、多様性の時代。でも、新しいメロディーも、もうちょっと出てきてもらいたいな」と話していた。 幅広い世代に親しまれ、多くの人の思い出に残る作品を生み出し続けた人生だった。 (写真と文:志和浩司)