小林亜星「もう終わりだ」大ピンチ秘話から今後の芸能・音楽への危機感
小林亜星は、昭和の時代から作曲家、俳優として第一線で活躍してきた。流行歌をはじめCMソングやテレビドラマの主題歌などを数え切れないほど手がけ、ドラマ「寺内貫太郎一家」では主演、バラエティー番組にも出て、幅広い年代に親しまれた。今月7日はキャリアの集大成「小んなうた 亞んなうた ~小林亜星 楽曲全集~」(日本コロムビア)をリリース。歌謡曲編、コマーシャルソング編、アニメ・特撮主題歌編、こどものうた編のCD4枚組が評判だ。音楽とテレビ、芸能界が濃密な関係性を保っていた昭和から平成にかけて、大衆に向けて作品を送り届けてきた亜星は、テレビの隆盛から衰退まで、まるごと歴史の生き証人。今月11日に87歳の誕生日を迎えたばかりの亜星に聞いた。
いい匂いの女給さんとジャズレコード
「子どもの頃から音楽は好きでした。堀内敬三さん(音楽家で評論家)がアメリカ留学から帰国後に訳詞を手がけた『アラビヤの唄』が浅草オペラの二村定一の歌唱で録音されヒットして、大好きでしたよ。親父の弟が結構いい男で、新宿のカフェ(西洋風の飲み屋)のお嬢さんと結婚して僕はよく親父に連れられて行ったんですけど、そこで『アラビヤの唄』を盛んにかけていた。その店の女給さんが、実にいい匂いがする方でね、ジャズレコードを聴いて子どもながら『俺は将来こういう世界へ行く』と思ったんです」 亜星は東京の杉並に住んでいたが、やがて戦争が始まり、空襲がひどくなると長野県の小諸に集団疎開した。 「成就寺というお寺にみんなで住んでいたんだけど、娯楽も何もなくて、夜になるとハーモニカでいろんな曲を吹きました。『お山の杉の子』っていう唱歌が流行っていたかな。レコードも作るような状況じゃなく、前から持っていたSP盤のレコードを手回しの蓄音機で聴きました。同盟国ドイツのクラシックやイタリアのオペラは大丈夫だけど、アメリカの音楽はダメで、ジャズは防空壕の中で内緒で聴いていました」