「やっぱり幸せのために生きてるんだ、人間は」――どん底も闘病も乗り越えた加山雄三86歳、波瀾万丈の人生 #昭和98年
大学を出た後は就職するつもりだったが、導かれるように芸能界に入る。 「夏休みにね、就職しようと思った会社の資料を集めて、うちに置いといたんだよ。そしたら、遊びに来た友達が『おい、なんだこれ』って。『ばか野郎、おまえは就職っていう顔じゃねえんだ。勉強ができるわけじゃねえ。代わりにのれんがあるだろう。とにかくその、自分でやってる多重録音で、なんか作ってみろ』と。言われるがまんまに作品を文化放送に持っていってね、多重録音を流したら、話題になっちゃったんだ」 加山は日本のポップミュージックで初めて多重録音に挑んだともいわれる。高校時代から、自宅で複数のテープレコーダーを使い、一人で場所や楽器を変えながら演奏して録音していた。
「若大将」でヒット連発の60年代 黒澤明監督との出会い
1960年、東宝と専属契約を結ぶ。「1960年代を驀進(ばくしん)する男」のキャッチフレーズで、映画俳優「加山雄三」としてデビュー。 「当時の社長が俺を紹介する時に、『加賀百万石の加、富士山の山、英雄の雄、小林一三の三、これで加山雄三と申します』って。俺、そんな価値はないんだけど、確かに覚えやすいなと思ってさ。名前に負けないようにがんばんなきゃ、という気持ちになるよね」 1961年から青春映画「若大将」シリーズがスタート。時代は高度経済成長期、音楽とスポーツに明け暮れる快活な大学生を演じて、一躍スターに。劇中では自作の曲を自演し、その曲が次々とヒットした。「幸せだなぁ」のフレーズで知られる「君といつまでも」は350万枚の売り上げを記録する。
「(若大将は)学生生活の延長線上で、もう一回学生をやってるような気持ちだった。いろんなところにロケに行けて、面白いなと思っていたんだけどね。忙しかったから、街で黒澤(明)さんに会った時、『テレビに殺されるなよ』って言われたよ」 俳優としての代表作に、黒澤明監督の『椿三十郎』(1962)、『赤ひげ』(1965)がある。 「黒澤さんに出くわしたことは大きかった。この世界で生きてみようと思えた。セリフ、覚えなくていいって言うんだよ。思えば出てくるんだよ、って。面白いよね」 宴会好きの黒澤組には、思い出もたくさんあるという。 「三船(敏郎)さんも仲代(達矢)さんもすごい飲む。ロケの時、三船さんがテキーラ買ってきたんだな。みんなどんどん飲む。俺はフラフラになって、その辺の塀にビンを持ったまま寄っかかって……。寒さで目が覚めたら、土砂降りだった。なんとか旅館に帰って寝ようとしたら、『支度して待機だよ』って起こされて。『雨降ってるじゃんよ』って。しょうがないから行ったら、三船さんも仲代さんも着物をきちっと着て待機してるんだ。やっぱりこうじゃないと、世界的にはなんねえのかなと思ったね(笑)」