「やっぱり幸せのために生きてるんだ、人間は」――どん底も闘病も乗り越えた加山雄三86歳、波瀾万丈の人生 #昭和98年
「のけ者」の少年時代 自宅で聞いた玉音放送
1937年、横浜で生まれた。田園調布に移ったが、2歳になる頃、茅ヶ崎へ転居する。 「俺は子どもの頃、体が弱かったらしい。親父が『潮風に当てて、丈夫に育てたほうがいい』と言って、茅ヶ崎に。今、『雄三通り』って呼ばれる通りがあるんだけど、そこで子どもの俺が遊んでいる動画が残ってるんだ。親父は映像の世界にいたから、16ミリフィルムで撮って『よろこび』ってタイトルをつけてる。80年も前の映像だよ」 父は銀幕のスター・上原謙、母は明治の元勲・岩倉具視の曽孫で元女優の小桜葉子。烏帽子岩の見える海岸近くで、敷地面積500坪余りの家に暮らした。戦時の貧しさのなか、加山は周囲から浮いていた。 「学校に行っても、のけ者だったよ。洋服だって、みんなはツギハギだらけだけど、俺はきれいなものを着ているし。仲間に入れてもらえないから一人で絵を描いていた」
茅ヶ崎は海軍関係の施設も多かったため、しばしば爆撃を受けた。燃料不足で落ちた飛行機のにおいを加山は今も覚えている。終戦を迎えた時は8歳で、自宅で玉音放送を聞いた。 「うちにラジオがあったから、憲兵が来て、玉音放送を聞かせてくださいと。憲兵がラジオの前に正座して聞いていた。天皇陛下の言葉の後、ボロボロ泣いているのよ。『ねえ、戦争終わったの?』って台所にいるおふくろに聞いたら、『大きい声で言うんじゃないの』って怒られてさ。戦争は終わった、終わったんだ。ものすごい勢いで、俺は喜んだよ」
14歳で初めて作曲 友人の一言で芸能界へ
「おふくろが言うには、俺が2歳くらいの頃、寝かせようとして日本の子守唄を歌うと、泣いちゃったんだって。『セントルイス・ブルース』とかジャズをかけると、すやすや寝たらしい。もともと明るいメロディーが好きなんだと思うよ」 音楽好きの父のもと、幼少期から音楽に熱中した。自宅にあるオルガンで練習し、8歳でバイエルの74番をマスターする。父の書斎でクラシックレコードを聴き漁り、中古ピアノを買い与えられた。初めて作曲したのは14歳で、これが後に代表曲「夜空の星」(1965)になる。 ギターとの出会いは慶應義塾高校1年の頃。スキー合宿に友人が500円の中古ギターを持ち込んでいた。たちまち魅せられて練習し、大学では「カントリー・クロップス」という6人編成のバンドを組んだ。 「貸しホールで演奏するアルバイトをしていたんだ。6人で出演料500円。ある時、米軍キャンプで演奏してほしいということになって、面白いじゃない、行ってみようよ、と。カントリーとエルヴィスをやったら、ウワーッて受けちゃってさ。半端ないのよ。それで人前で歌う喜びを知った」