「学校に通うのは反対じゃ...」松下幸之助の父が、奉公をやめさせなかった理由
一代で世界的企業を築き上げ、"経営の神様"と呼ばれた松下幸之助だが、成功の陰には数々の感動的なエピソードがあった――。幸之助の通学に反対し、奉公を続けさせた父、幸之助が自身を「運が強い」と言った背景...。3つのエピソードを紹介する。 【写真】整列する社員に声を掛ける、1968年の松下幸之助(当時73歳) ※本稿は、PHP理念経営研究センター編著「松下幸之助 感動のエピソード集」(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
父のひと言
幸之助が11歳になったころ、それまで郷里の和歌山に住んでいた母と姉が、幸之助や父がいる関係で、大阪の天満に移ってきた。そして、姉は読み書きができたので、大阪貯金局に事務員として勤めることになったが、そこでたまたま給仕の募集があることを知り、そのことを母に伝えた。母は、奉公している幸之助を手元で育てたいと思ったのであろう。 幸之助に、「幸之助も小学校を出なくては、先で読み書きに不自由するだろうから、この際、給仕をして夜間は近くの学校へでも行ってはどうか」と勧めてくれた。 母の手元から給仕に通って、夜は勉強する。窮屈な奉公生活をしていた幸之助にとって、それはたいへんうれしい話である。「ぜひそうしてほしい」と、母に願った。母は、「それではお父さんに話して、お父さんがよければそうすることにしましょう」と言ってくれた。 ところが、そのつぎに父に会ったとき、父はきっぱりこう言った。 「お母さんから、おまえの奉公をやめさせて、給仕に出し、夜は学校に通わせては、という話を聞いたが、わしは反対じゃ。奉公を続けて、やがて商売をもって身を立てよ。それがおまえのためやと思うから、志を変えず奉公を続けなさい。 今日、手紙一本よう書かん人でも、立派に商売をし、多くの人を使っている例がたくさんあることを、お父さんは知っている。商売で成功すれば、立派な人を雇うこともできるのだから、決して奉公をやめてはいけない」 せっかくの母の思いであったが、幸之助は給仕になることを断念した。その後ほどなく父は病にかかり亡くなったが、この父の言葉は、奉公中はもとより、事業を始めてからも、ときおり思い出され、幸之助を支えてくれたのである。 *松下家を没落させたことを、常々、幸之助に詫びていた父のためにも、商売に成功して松下家を再興させることは、幸之助の大きなモチベーションになっていたことだろう。