内裏混乱のさなかに生を受けた脩子内親王
伊周らはともかく、ことのほか愛した定子と、生まれたばかりの脩子内親王を不憫に思ったか、一条天皇は、定子らを職曹司に呼び戻した。愛情からの措置だったとはいえ、一条天皇の下した判断は貴族社会で反発を招く。職曹司は天皇や皇后の生活空間である内裏ではなく、その周辺エリアにあたる場所にあった。それでも、ひと度出家して俗世間と縁を切った者を、政治の中枢に呼び戻すことに、貴族が反発するのは当然のことといえる。 1000(長保2)年12月、定子は第三子である媄子内親王を出産した直後に死去。脩子内親王は物心がつく前に、母を失ったことになる。 その後、脩子内親王ら定子の遺児は、定子の妹である御匣殿(みくしげどの)の手で育てられることになった。ところが、その御匣殿も1002(長保4)年にこの世を去っている。 これを受け、敦康親王は一条天皇の中宮となった藤原道長の娘・藤原彰子に養育されることとなり、媄子内親王は道長の姉であり、一条天皇の母に当たる藤原詮子(せんし/あきこ)に引き取られたといわれている。 御匣殿の死後、脩子内親王がどこにいたのか、よく分かっていない。どうやら一条天皇の勅命により、宮中で育てられることになったらしい。 1007(寛弘4)年に一品にのぼり、准三宮となった。内親王が准三宮となるのは例が少なく、愛娘に対する一条天皇の愛情を背景とした処遇だったようだ。 早くに実母・定子、養母・御匣殿を亡くした脩子内親王は、翌1008(寛弘5)年には妹の媄子内親王にも先立たれるという不幸に見舞われている。1010(寛弘7)年には伯父の藤原伊周も亡くなり、ますます孤立を深めた。
さらに、父の一条天皇が1011(寛弘8)年に崩御。これを受け、脩子内親王は藤原隆家のもとに身を寄せている。宮中に留まり、道長や彰子の庇護下にあるのをよしとしない本人の決断だったようだ。 藤原実資(さねすけ)の日記『小右記』によれば、道長は自身の目の届かないところへ脩子内親王が移ることを快く思わなかったらしい。しかし、相次いで身内を亡くし、父の一条天皇すら失ってしまっては、宮中に留まる意味を見いだせなかったのも不思議ではない。 1024(治安4)年に生涯独身を貫いたまま出家。一方で、藤原頼宗(よりむね)の次女である延子(えんし/のぶこ)の養育にあたった。延子の母は藤原伊周の娘であるため、脩子内親王にとって延子は数少ない身内というべき存在であった。 のちに延子は後朱雀(ごすざく)天皇に入内しており、この時、脩子内親王は養母として付き添ったといわれている。晩年は、生涯叶うことのなかった家族の時間を味わっていたのかもしれない。 1049(永承4)年2月に死去した。享年54。釈迦入滅と同日だったことから、きっと成仏されたことだろう、と人々はささやきあったという。
小野 雅彦