「おおおぉぉぉ」ラグビー早明戦、なぜ名勝負が生まれるのか? 第100回を終えて考える“赤黒”と“紫紺”の歴史「解説席の五郎丸も田村優も…」
「明治」のDNAとは?
一方、明治とはなにか。 メモリアルブックに、やはりヒントがある。2018年度、明治を大学選手権優勝に導いた田中澄憲が、清宮との対談でこう話している(聞き手は同じく藤島さん)。 「やはり明治はスクラムとモール。そこはフォーカスしました」 ――らしさはスクラムで。 「加えて、それだけでは勝てないのでラグビーというゲームとしてどうあるべきかを指導する。(中略)ただ実際にあったんですけど、早明戦(2018年)でPGを狙わずにスクラムを選択して反対にペナルティーを取られて、モメンタムが向こうに流れて負けた。この失敗は明治らしくていいと。次はスクラムを選んで押し切れる強さを身につけなければいけないという話ができる」 100年の歴史が重なっても、明治の芯はスクラムとモールにある。 こだわり。しかし、そこさえ抑えれば表現の幅は広がる。 その源泉をたどっていくと、やはり北島忠治につながる。 北島忠治、明治を体現した人。 なんと、1926年第4回早明戦のメンバー表にその名前がある。選手としては1928年に早稲田に勝つ。実はこれ、第6回にして明治にとって早明戦初勝利。その翌年の1929年、大恐慌が始まった年からは明治の監督になった。 北島監督には何冊か著書があるが、体系だったラグビー哲学を説いたものはない。北島の場合は「語録」がメインであり、1996年に亡くなった後、その教えを受けた「使徒たち」が解釈してきたが、皆が神髄を伝えたかというと、必ずしもそんなことはない。 明治にとって幸いだったのは2018年に田中が監督になったことだ。田中が最後の使徒だと思ったのは、対談の中にこんな発言があるからだ。 「北島先生は自分が2年になってからグラウンドにもう出られなくなって。1年のころに、いきなりロッカールームに入ってこられて話をする。そのときは『ああ、明治に入ったんだ』と感じました。早稲田や慶應に対するリスペクトを意識させられた。北島先生がいなくなってそれがなくなりました。だから学生のころは深くはわからない。監督になって対抗戦の歴史を学び直しました」 早稲田と慶應への尊敬。他校をリスペクトすることで、田中政権下の明治は強さを取り戻した。ライバルを知って、明治の強みに立ち返った。 そして清宮も、明治へのリスペクトを示し、こう語る。 「スイッチが入って噛み合うと、とんでもない力を発揮する。めちゃくちゃ強い。でも集中しないとポロッと負ける。ファンにとっての『愛されキャラ』なんです。人間らしい。いまはムラのある試合はしなくなった。明治と早稲田の違いも昔ほどではない。それでも、あの紫紺のジャージーは100年以上の歴史を引き継いでいる」 赤黒と紫紺。 ふたつのジャージに歴史は刻まれている。
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