【追悼】リブのカリスマ・田中美津さん、81年の生涯。反戦デーのビラから始まった
〈発売中の『婦人公論』11月号から記事を先出し!〉 日本のウーマン・リブ運動は1970年、国際反戦デーで田中美津さんによってまかれたビラから始まったと言われる。そんな「リブのカリスマ」と呼ばれた田中さんが2024年8月7日、亡くなった。享年81。彼女に4年間密着し、ドキュメンタリー映画『この星は、私の星じゃない』(2019年公開)を撮った吉峯美和監督が、ありし日の田中さんを追想する 【写真】1970年代、公園で開かれたリブ集会で、発言者の話に耳を傾ける田中美津さん * * * * * * * ◆日本のウーマン・リブの伝説的リーダー 日本のウーマン・リブの伝説的リーダー、田中美津さんに初めて会ったのは2015年、戦後70年の女性解放史をたどる証言ドキュメンタリー番組のインタビューでだった。 「女性解放は大事だけれど、私の解放はもっと大事なのよ。女らしく生きるより、私を生きたい」。 1970年代に女自身の意識変革をめざしたリブ。多くの女性たちを揺り動かした、今も古びない言葉に魅了され、当時をまったく知らない世代の私が4年にわたって自主製作で彼女を追いかけることになった。 「カリスマ女闘士」のイメージが貼りついてきた美津さんだが、実は生まれつき虚弱体質で、しかも幼児期に受けた性虐待のトラウマを、70歳をすぎてもひきずっていた。 「5歳ぐらいの時に自分の世界が崩れた……なぜ私の頭にだけ石が落ちてきて、隣の女の子の頭じゃなかったんだ? この星は、私の星じゃない。だから私は守られてない、大事にされてないんだ」。 ずっと自己を否定せざるをえなかった、傷ついた少女の煩悶がドキュメンタリー映画のタイトルになった。
撮り続けているうちに、美津さんのすごさは、その解消されないトラウマを自らのエネルギーの源にして言葉を発してきたことだと感じた。 「他の女たちはまだ正札さえ付けていないのに、私だけがディスカウント台にのぼっているような気分……私を救いたい。私のために頑張ることが世の中全体を変えていくことにつながるんだ」。 常に〈私〉から出発するブレない強さ。だからその言葉には力が宿り、痛みを抱える人の心に響くのだろう。 しかし、美津さんがウーマン・リブ運動に打ち込んでいたのはわずか5年間だ。国際婦人年の75年、初の世界女性会議をきっかけに訪れたメキシコで、現地の男性と大恋愛をして妊娠、出産するが、未婚のまま帰国。自分の弱い身体をケアしながら、シングルマザーとして子どもを育てていくために鍼灸師の資格をとった。 母として鍼灸師として生きた40年以上の歳月については、これまであまり知られていなかったが、私の映画はそうした日常にカメラを向けている。 リブ時代の美津さんは、1対多数の関わりで、その卓抜した言葉によって女たちを惹きつけた。しかし鍼灸師になってからは、1対1で患者と濃密に向き合う。鍼を通じて自らの生命エネルギーを注いでいるのだと言い、治療後は抜け殻のようになって倒れてしまいそうだった。 そこには、長年通い続けて身体がよくなると同時に、美津さんとのおしゃべりで心も軽くなり、前向きに〈私〉を生きようと変わっていく女性たちの表情があった。 運動によって社会全体を変えることはできなかったけれど、一人の人間の身体と真剣に向き合うことで、この人を変えることはできる。そう美津さんは確信しているように見えた。 「一人に3~4時間かけて治療し、オーバーに言えば自分の命をかけて、この人を助けることに夢中になる……私の中にその人の居場所があるし、その人の中にも私の居場所がある。やっぱり5歳の時に失った世界を、新しく自分の世界として獲得し直そうとしている私がずっといるんじゃないかって、この頃やっと気がついたの」。