バクチに負けて“スケベ屋敷”のすぐ裏で妻を抱かせることも…「一種の文化だったわけよ」《津山三十人殺し》が起きた時代の“性に開放的すぎる風習”
女に捨てられ、兵役にさえ就けず
地元の古老の話によると、前述した遺書のなかで名前が登場した寺井ゆり子や西川良子らも、睦雄からかなりの額の金額を受け取り、関係を結んでいたという。しかし、本人たちはその後の警察などの取り調べで都井との肉体関係を否定しているため、真偽のほどは定かではない。いずれにしろ、ふたりは事件の起きる数ヵ月前に睦雄を捨てるように、他家へ嫁いでいってしまった。 そうしたふたりの女性の行動は、彼女たちが意図したものだったかどうかはともかく、睦雄にとっては裏切り行為以外の何物でもなかった。 睦雄は傷ついた。折から戦火は拡大しつつあり、村の若い男性は次々と兵隊に取られていった。しかし、睦雄は結核を患っていたため、兵役にさえ就けない。正確には、睦雄は徴兵検査に「丙種合格」だった。当時の徴兵検査の合格には、上から甲種、乙種、丙種などランクがあり、甲種と乙種合格までが一般的な合格ラインとされた。そして丙種合格は、「戦場では使い物にならない欠陥品」という、いわば負の烙印といえるものだった。これは睦雄のプライドを大きく傷つけ、コンプレックスとなったはずだ。 そんな鬱々とした気分の最中、自分を裏切って他家へ嫁いだふたりの女性がたまたま里帰りした。 この機会を逃すことなく、睦雄は凶行に走った――。
「助平屋敷」という夜這いの名残
津山事件が発生した貝尾とは市街地を挟んで反対側に「物見(ものみ)」という集落がある。 2001年(平成13)8月、私は津山事件の取材で物見を訪れた。 物見には旧因幡国(今の鳥取県)と津山を結ぶ因幡街道が通っていた。物見の集落のはずれ、旧因幡街道の山道のすぐ脇に草が鬱蒼と茂った平地がある。その平地には戦前のある時期まで、“助平屋敷”と呼ばれていた屋敷があったという。
それにしても助平とは何やら所以のありそうな名前だ。いったい、助平屋敷の所以とは何なのだろうか。物見に住む古老に聞いてみた。 「ああ、そこは昔の賭場の開かれたところだよ。山の中の村じゃ、娯楽なんてほとんどないからねえ。数少ない娯楽のひとつが博打だったわけさ。サイコロや花札など、いろんな博打が開かれたようだよ」(物見に住む古老) だが、なぜ博打を意味する言葉ではなく、助平などという枕詞がつけられているのだろうか。
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