ハイデガーが「黒いノート」に書いた「反ユダヤ的記述」の「真意」
「ユダヤ的なもの」としてのナチズム
このように「黒いノート」には、学長時代における彼の政治的な所信やそのつどの情勢認識が記されている。こうした現実政治に対する直接的なリアクションは学長を辞任してからは、ナチズムに対する批判という形で顕著に示されるようになる。 上で述べたように、ハイデガーにとって「存在の問い」は民族性の真の根拠への問いを意味していた。彼の超‐政治は1930年代後半になると、この「存在の問い」に立脚して、あらゆる存在者の計算的な支配を目指す「力への意志」に基づいた現代的な政治を批判するという形を取るようになる。 ハイデガーはこうした「力への意志」を近代的な主体性の本質と見なしていた。 「黒いノート」では、ナチズムが主体性の遂行形態であることが繰り返し指摘される。 ただしハイデガーはボルシェヴィズム、アメリカニズム、イギリス型民主主義なども主体性の一形態であり、ナチズムと同じ形而上学的本質をもつものと見なしていた。ナチスのプロパガンダに従えば、第二次世界大戦はボルシェヴィズム・金融資本=ユダヤ人の世界支配の陰謀との闘いであるが、ハイデガーの超‐政治の観点からすると、それは主体性と主体性のあいだの世界支配をめぐる争いでしかなく、どちらが勝利しても主体性の支配が貫徹されるだけでしかないものだった。 あの物議を醸した「黒いノート」における「ユダヤ的なもの」をめぐる記述も、基本的には今見たような主体性の形而上学に対する批判の文脈のうちに位置づけられる。 ハイデガーによると、存在者を計算可能、作成可能なものと捉える主体性は、古代ギリシア哲学と並んで、あらゆる存在者を神によって作られたものと捉えるユダヤ‐キリスト教の創造説に由来する。このような意味で、主体性の形而上学は「ユダヤ的なもの」とも言いうるわけだ。 それゆえ彼はナチスが主体性の形而上学によって無自覚に規定されている状態を、ユダヤ人を迫害するナチスこそが「ユダヤ的なもの」であるといった仕方で揶揄するのである。 このような形でのナチス批判は、たとえば1942年頃に書かれた覚書では次のように表現されている。 「形而上学的意味において本質的にユダヤ的なもの〔=ナチス:筆者注〕がはじめてユダヤ的なものと戦うとき、歴史における自己無化がその極点に達している。つまり「ユダヤ的なもの」が至るところで支配を完全に我がものにして、その結果、「ユダヤ的なもの」との戦いさえも、またとりわけその戦いがユダヤ的なものに従属するに至っているとすればだが」(『注記I‐V ハイデガー全集第97巻』、20頁)。 しかし先ほどの議論によると、主体性は「ユダヤ的なもの」というだけでなく、キリスト教的でもあり、またギリシア的でもある。そうだとすると、なぜここで「ユダヤ的なもの」だけが言及されているのだろうか。 ここで注意すべきは、「黒いノート」における「ユダヤ的なもの」への言及が基本的にはすべて1938年終わり以降、数年間の覚書に限定されているということである。つまりそれらの覚書はナチスが1938年11月のいわゆる「水晶の夜」(注)以降、ユダヤ人に対する迫害を目立ってエスカレートさせたあとの時期に書かれたものである。 ハイデガーはそれ以前からナチズムが形而上学によって無自覚に規定されていることを批判していた。こうした彼のナチス批判は、ナチスがユダヤ人迫害を露骨に強化したことに敏感に反応して、ユダヤ人を攻撃するナチス自身が主体性の形而上学という「ユダヤ的なもの」に従属していることを揶揄するといった形で表現されるようになる。 これはもちろん、ナチスによるユダヤ人の迫害が無意味だという批判を含意する。「黒いノート」における反ユダヤ主義的だとされる他の覚書も基本的にはユダヤ人を迫害するナチスそのものがユダヤ的であることを皮肉る内容をもち、つまりナチス批判として理解されるべきものである。 もっともそうは言っても、「ユダヤ的なもの」が否定的に捉えられていることには変わりないのだから、それはそれで問題ではないかという疑問も出てくるかもしれない。 しかしハイデガーがここで批判しているのは、「ユダヤ的なもの」であるとともに、「キリスト教的なもの」でもあり、さらにまた「ギリシア的なもの」でもあり、本来はそうした拡がりにおいて捉えられるべきものである。 またハイデガーがギリシア哲学を形而上学の始まりとして批判する場合、ギリシア人を批判したり差別したりしているわけではないのと同様、「ユダヤ的なもの」の批判においても現実のユダヤ人を問題にしているわけではない。 それでも現実にユダヤ人が差別されているという状況において、「ユダヤ的なもの」だけを取り上げて否定的なことを述べれば、それはやはりユダヤ人蔑視を助長するだけだという批判もあろう。 実際のところハイデガー自身、このような単純化された言い回しが世間の誤解を招きうることは重々承知していた。それゆえ彼は「黒いノート」以外のテクストでは、主体性の形而上学の「ユダヤ‐キリスト教的な」起源についてはしばしば語るものの、それを端的に「ユダヤ的なもの」と言うことは決してない。 彼はただ「黒いノート」という、より私的で率直な意見表明をおのれに許した場においてのみ、ナチスによるユダヤ人迫害の過激化に対する直接的な反発として、そのことがいかにナンセンスかを際立たせるために、ナチスこそ実は「ユダヤ的なもの」だという先鋭化されたレトリックを用いるのである。 (注:1938年11月9日から10日にかけての夜に起こった、ナチスによって主導されたユダヤ人に対する全国規模の暴動を指す。各地のシナゴーグやユダヤ人の商店や家屋が焼き討ちされ、数百人のユダヤ人が殺害された。この事件はユダヤ人に対する差別が、強制収容所でのユダヤ人の大量殺戮といった組織的な迫害にエスカレートしていく転換点だとされている。フライブルクでも大学の建物のすぐ隣にあったシナゴーグが焼け落ちた。)