ハイデガーが「黒いノート」に書いた「反ユダヤ的記述」の「真意」
「存在の問い」の政治性
ハイデガーの「黒いノート」は合計34冊が残されており、その執筆期間は1932年から1970年代初頭までのおよそ40年間にわたる。 全103巻のハイデガー全集のうちの94巻から103巻までが「黒いノート」に割り当てられており、現時点ではそのうちの99巻までが刊行されている。「黒いノート」という呼び名はハイデガー自身によるもので、覚書を書き留めたノートが黒いカバーをもつことに由来する。しかしその中から反ユダヤ主義的と疑われる記述が見出されたことにより、まさに名実ともに「黒いノート」になってしまった。 「黒いノート」には哲学的な省察が短い断章の形で記されている。こうした形式は『哲学への寄与論稿』などを代表とする1930年代後半以降の作品によく見られるもので、それ自体は特別なものではない。 そうした数ある覚書集と同様、「黒いノート」でも西洋形而上学の二千数百年の歴史において忘却されていた「存在」をめぐる難解な思索が延々と繰り広げられている。しかし「黒いノート」にはさらに、自身の身の回りの出来事や人物、また同時代の政治的事件などについて、他の覚書には見られない率直な、また時には辛辣なコメントが書き留められている。 もちろんそれは彼の「存在の思索」から逸脱したものではなく、むしろその立場から現実の出来事を解釈するといったもので、彼の哲学と現実の接点を示している。ハイデガーといえば、山小屋にこもって「存在」について沈思黙考する、現実遊離した非政治的な哲学者というイメージをもつ人も多いだろう。このような見方に沿って、彼のナチス加担も世間知らずの哲学者の一時的な暴走のように捉えられたりする。 しかし「黒いノート」に示されているのは、それとはまったく異なる「政治的な」ハイデガー像である。 「黒いノート」が書き始められた直後の1933年1月にナチスが政権を取り、4月にハイデガーはナチス支持者としてフライブルク大学の学長に選出される。その時期の「黒いノート」には、まさに彼がナチズムにどのように関わろうとしていたかが記されている。 彼はそこで自身の「存在の問い」を「メタポリティーク」、すなわち「超政治」と呼び、「存在の問い」がそれ自身、民族性の根拠への問いとして独自の政治性をもつことを強調している。 彼はナチスがその人種主義的な民族観を克服して、「存在」の生起に基づいた民族性への還帰というドイツ人の使命を担うことを期待したのだった。超政治の「超」とは、そこで目指しているものが既存の政治の目標とはまったく異質のものであることを示している。 ハイデガーのナチス加担の場合は、ワイマール自由主義や共産主義は言うまでもないが、ナチスの人種主義も超えられるべき「政治」として想定されていた。 当時、ドイツの大学ではドイツ学生団という完全にナチス化された学生団体が大学における「強制的同質化(グライヒシャルトゥング)」の先兵として猛威を振るっていた。 ドイツ学生団は「非ドイツ的」書物の焚書、ユダヤ人学生や教員の排斥運動を行い、また労働奉仕や軍事教練、全寮制の導入も要求していた(全寮制はヒトラーの決裁を仰いだところ、同性愛がはびこったらどうするのだという一言で頓挫したという)。学生団は大学によっては教官人事にも影響を及ぼすなど、正教授を頂点とするこれまでの大学運営のヒエラルキーを脅かす存在となっていた。 ハイデガーはこのように過激化した学生を自身のメタポリティークによって教化し、その破壊的パワーを自身が目指している大学改革の推進力に転換しようと試みたのだった。 同僚の正教授たちはハイデガーがその学問的な名声により、ナチスに対する防波堤になることを期待して彼を学長に選出したのだった。そうした彼らからすれば、自分たちの権限を奪う指導者原理を大学に導入し、また学生に肩入れして「学問の変革」を目指すハイデガーの姿勢は「大学の自治」に対する裏切り行為にしか見えなかった。 このように同僚教授からは強い反感を買い、結局のところ学生の理解も得られなかったハイデガーが大学運営に行き詰まるのは時間の問題だった。 彼は1934年4月に学長就任後、わずか一年でその職を辞することになった。 「黒いノート」には先ほど述べたメタポリティークの実践という抱負が、失敗の認識へと変わっていく過程が生々しく示されている。 早くも1933年夏にはドイツ学生団が無能であるという批判が見られるようになる。そして学長を辞任した日には次のように書き記されている。「学長職の終わり。1934年4月28日。――自分の職を辞任した。なぜなら責任を負うことはもはや不可能だからである。/凡庸さと喧騒、万歳!」(『省察II‐VI ハイデガー全集第94巻』、162頁)。