明治維新は「西郷隆盛がやった」と言える理由
いま、日本の政治は危機にある。言い訳や責任逃れに終始するリーダーたち――。その姿を、草葉の陰で、明治維新のリーダーたちはどう見ているだろうか。 【写真】西南戦争の激戦地だった「田原坂」一の坂 昭和史の語り部として知られ、自らは「歴史探偵」と称した故・半藤一利氏は、幕末史についての執筆も案外多い。 たとえば明治維新については「二重の革命だった」とし、その一つは「薩長の倒幕による権力奪取」であり、もう一つは「下級武士対殿様、上級武士の身分闘争」だったとの見解を示している。さあ、歴史探偵が見抜いた幕末史の裏側に潜む真実を覗き見てみよう。 ※本稿は半藤一利著『もう一つの「幕末史」』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。
新しい国づくりの展望もなく、大混乱が続く新政府のなかで際立つ大久保利通
明治元(1868)年の段階で、のちに「維新の元勲」に成り上がった人たちはいったい何歳くらいだったのでしょうか。ざっと並べてみます。 岩倉具視44歳、西郷隆盛42歳、大久保利通39歳、木戸孝允36歳、井上馨34歳、三条実美と板垣退助が32歳で、山県有朋と大隈重信が31歳、伊藤博文が28歳。ちなみに勝海舟は46歳。 みな若いですねえ。今で言えば、会社の課長か係長くらいの年齢です。それだけに、いざ政権を握ってみると大混乱の連続でした。 明治2年2月、東京に新政府ができますが、要するに倒幕勢力の寄り合い所帯で、てんでばらばらに好き勝手なことを言っているだけ。木戸孝允が「多くはただ己れに利を引き候ことのみにて」と嘆けば、三条実美が「ほとんど瓦解の色相顕れ」と蒼ざめるような有様でした。 幕府を倒し権力は奪取したものの、やっていることと言えば、毎日役所に出てきて座禅、アクビ、たばこをふかすだけ、明治政府には新しい国づくりの展望などなかったのです。 この危機を乗り切ったのは、一つには大久保利通のたぐいまれな政治センスが大きかったと思います。まず大久保は明治2年の5月には、それまで議定と参与で30人もいた政府幹部を10人にまで減らします。 そして7月には参議4人に絞り、その下に民部、大蔵、外務などの6省を置いてそれぞれのトップに自分の息がかかった人物を配置したのです。決定機関をスリム化するなかで、とにかく省をつくって、政府のやるべき方向性もしっかり固めていきました。 興味深いのは、このとき西郷さんは東京にいないんですね。奥羽戦争の総指揮をとった西郷さんは戦の帰趨を見届けると、薩摩に帰ってしまったのです。そして、戦後になって使い捨てにされつつある下級士族の救済に力を注いでいました。