明治維新は「西郷隆盛がやった」と言える理由
西郷の起こした内乱(西南戦争)、それは誰に対しての反抗だったのか
兵力こそ少ないものの、西郷軍は戊辰戦争で実戦体験を積んだ士族団で、相手は徴兵で集められた農民や町民出身の素人集団。しかも熊本城を守っている政府軍の参謀長は、薩摩出身で西郷に心酔していた樺山資紀。白洲正子の祖父です。 この人が寝返れば熊本城は落ちる。そのまま下関へ行き、やはり薩摩出身の川村純義の迎えの船に乗って大阪湾まで直行する。そのつもりだったというのです。 開戦直前にちょうど薩摩に滞在していたイギリス公使館の通訳アーネスト・サトウも、その日記に、鹿児島の県令(知事)・大山綱良などが口にしていた、大きな期待がこめられた楽観論を書きとめています。 「海軍は西郷に敵対する行動をとることを拒否するであろう」「政府軍は西郷の進撃に恐れをなし、なんの抵抗も試みないだろう」「熊本鎮台(司令部)の参謀長・樺山資紀が薩摩出身であることが、大いにあてにされている」 そしてサトウも自分の見聞きしたところからの判断を、こう書きつけている。 「鹿児島の全住民は、政府に対して敵意に燃え、薩摩士族が政府打倒のために進軍しているのを喜んでいるように見受けられる」 そして、若き明治天皇もまた、と思われる節もあります。内乱が始まったあと、京都まで馬を進めてはいますが、政務を見ようとはせず、戦況報告などに耳を貸そうともしなかった。西郷の反乱は、天皇に対しての反抗ではなく大久保へのそれだと考えておられたとも言われています。 それはともかく、もし西南戦争で西郷さんが勝っていれば、日本は殖産興業路線ではなく、軍事専制国家の道を歩んだのではないか。となれば、日清戦争はもっと早く勃発したかもしれませんね。
維新3傑の死、そして新しい国づくりが始まった
ところが兵器が違った。西郷軍は旧式銃で、時代錯誤の火縄銃を使っていた兵も少なくなかったのに対し、新政府は戦争前から金をありったけ使って元込めの新式銃を購入しており、田原坂の攻防では1日に32万発も弾丸を消費したと言います。 さらに戦争中にも機関銃や風船爆弾といった新兵器をイギリスから購入して、西郷軍を圧倒しました。 さらには諜報戦でも政府軍の圧勝でした。西郷と桐野の意見の対立まで筒抜けだったほどです。この諜報戦の政府側の元締めは、西郷さんの弟の従道なのですから、これも驚きです。 西郷さんは明治10(1877)年9月、鹿児島の城山で自刃します。奇しくもその4ケ月前、木戸孝允、すなわちかつての桂小五郎が病死し、翌11年5月、大久保利通が暗殺されます。 およそ1年ほどの間に、維新3傑が3人ともこの世を去ってしまったのです。3人の死は、ある意味では暴力的な権力奪取でもあった明治維新の"みそぎ"の役割を果たしたかのようにも思えます。 ペリー来航から明治元年までが15年、明治政府成立から西南戦争までが10年。そしてみんないなくなった。歴史とは非情なもので、25年かかったガラガラポン(御一新)はもういっぺんやり直し、となったわけです。 近代国家を目標とした新しい国づくりはそこから始まります。もうサムライの時代ではなくなっていました。四民平等、それを目指して、というわけです。
半藤一利(作家)