明治維新は「西郷隆盛がやった」と言える理由
リアリストでもあった西郷が中央に戻り、改革の断行と人材登用が進んでいく
西郷さんはリアリストである一方で、負け組に荷担するような心情を強く持っていました。成り上がりの元勲たちが東京に出てきて豪邸を建て多くの女性を侍らして豪奢な毎日を送るなか、彼だけは、薩摩に帰っても以前と変わらぬ質素な暮らしをしていました。 その西郷さんが岩倉や大久保たちからの強い要請があって中央に戻ってきたことが、足取りのおぼつかなかった明治新政府にとって決定的なこととなりました。 国民軍をつくり、廃藩置県を断行するためには西郷のカリスマ性が絶対に必要だ、という山県有朋の強い主張に最後には応じて、明治4(1871)年2月、東京にやってきた西郷さんは、薩長土3藩の兵による1万人の御親兵(のちの近衛兵)を創設します。 そして7月には、その強力な政府直属軍を背景として、各藩の殿様から領地を召し上げ、すべての武士を失業させるという離れ業、廃藩置県が断行されたのです。 さらに同年の11月に、岩倉、木戸、大久保、伊藤らが遣欧使節団として日本を離れると、留守を預かった"西郷政権"はめざましい勢いで内政改革を始めます。日本に残っていた三条実美はお飾り的存在で、西郷の周りを固めていたのは大隈重信、板垣退助、そして山県有朋といった面々でした。 実は、西郷さんは、岩倉や大久保たちの出発前に12条の約定を交わしていました。「国内事務は新規の改正をしないこと、内閣の規模を変革しないこと、官員を増員しないこと」など、厳しく縛られていたのです。 要するに、現状のまま手をつけず、留守中余計なことをしない、という約束です。にもかかわらず、西郷さんはそれらをすべて"ゴミ箱"に放り込み、独断でどんどん改革を進めていきました。 まず徳川慶喜をはじめ朝敵だった大名を全員大赦し、榎本武揚など旧幕臣も釈放して、有能な者を政府役人に登用します。もちろん真っ先に、渋る勝さんを説き伏せて、新政府に引っ張り出しています。 そして徴兵令をはじめ、学制発布、新橋・横浜間鉄道開業、太陽暦の採用、国立銀行条例の制定、地租改正と、一気に近代国家としてのインフラをつくり出していったのです。もちろん前々から着手されていたのでしょうが、断行されたのは"西郷政権"のときでした。