明治維新は「西郷隆盛がやった」と言える理由
自分がつくったも同然の国家に対し内乱を起こすことになった西郷
「明治維新は誰がやったのか」という問いに、一人だけ挙げるとしたら、大久保を名指す人が多いでしょうが、私はやはり西郷さん以外にはいないのではないかと思うのです。 その西郷さんがなぜ、断々固たる革命をやって、自分がつくったも同然の明治国家に対して、西南戦争という、近代日本史でも空前絶後の内乱を起こしたのでしょうか。 よく言われるように、理由は征韓論争に敗れたからということになりましょう。が、これは単に朝鮮問題をめぐる対立ではなかった、と私は考えます。 俗に明治政府の大方針を"富国強兵"と言いますが、よく考えると「富国」と「強兵」はなかなか両立しない政策なのです。軍隊を強くしようと思えばお金がかかるし、商売を盛んにしようとすれば簡単に戦争はできない。二律背反ですね。 国家財政が貧弱なのに、そんな余裕はないという現実論を主張した大久保が「富国」を代表し、永久革命の精神に基づく理想論を唱えた西郷が「強兵」を代表していたとすれば、いつかは衝突する宿命にあった、そう考えるほかはありません。 明治6(1873)年10月、征韓論争で大久保の策謀に敗れた西郷さんが鹿児島に帰ったあと、各地で不平士族の反乱が続きます。岩倉具視の暗殺未遂、江藤新平の佐賀の乱(いずれも明治7年)、神風連の乱、秋月の乱、前原一誠の萩の乱(いずれも明治9年)と、多くの血が流されました。 ある意味では、幕末の権力争奪の乱は続いていたと言えます。彼ら不平士族の人望が西郷さんに集まっていたのは、ごく自然な流れと言うべきでしょう。 そして、明治10年2月、陸軍少将だった桐野利秋や篠原国幹らの側近に担がれる形で、ついに西郷さんが「新政府に問いただしたいことがある」と挙兵。幕末争乱の終焉と言える西南戦争が勃発します。 意外なことかもしれませんが、挙兵は必ずしも本意ではなかったものの、西郷さんはこの戦には"勝てる"と思っていたようなのです。