マダガスカルの謎の遺跡で定説覆す発見、ゾロアスター教の楽園か、建造が数百年早かった
イランの遺跡によく似たテネキー遺跡、ペルシャを追われて避難した?
インド洋に浮かぶマダガスカル島のテネキー遺跡は、長い間科学者たちを悩ませてきた。初期の説では、岩にうがたれたくぼみや石壁を最初に作ったのは1500年代に難破したポルトガル船に乗っていた人々とされていた。しかし、2024年9月11日付けで学術誌「Azania: Archaeological Research in Africa」に掲載された研究では、それよりも数世紀も早い時代の遺物が見つかり、ペルシャを追放されたゾロアスター教徒たちが楽園を築こうとした可能性が示唆された。 ギャラリー:マダガスカルの謎のテネキー遺跡、ゾロアスター教の楽園か 写真5点 テネキー遺跡は、マダガスカル島の南西部に広がる熱帯雨林や岩がちな丘、そびえ立つ山脈に囲まれている。最も近い海岸から200キロ以上離れており、島のどこから向かっても非常に遠い。 崖の高い位置に刻まれた、幅と奥行きが数十センチほどの数十個のくぼみは、まるで小さな部屋のように見える。縁がへこんでいるくぼみが多く、おそらくは木や石の扉があったのではないかと思われる。 これらのくぼみは、マダガスカルや東アフリカのほかの場所で見つかっているものとは大きく異なる一方、イランのゾロアスター教の遺跡にある埋葬用のくぼみと驚くほどよく似ている。 「われわれの仮説は、テネキー遺跡のくぼみは、遺骸を野外にさらしたり、乾いた骨を保管したりする埋葬地の一部だったというものです」と、スイス、ベルン大学の地質学者で、研究を主導したグイド・シュルース氏は言う。
10~12世紀の間には人が住んでいた
現地を訪れる前から、シュルース氏は、テネキー遺跡の起源に関する定説を「疑わしい」と考えていた。テネキーの岩の建造物はこれまで、16世紀に難破したポルトガル船の乗組員が、港を見つけるために島を横断している最中に作ったとされてきた。 しかし、テネキーの岩のくぼみは、ペルシャ(現在のイラン)のファース地方にあるゾロアスター教の埋葬地の岩に見られるくぼみとよく似ている。これらのくぼみは、現在は消滅したパフラヴィー語で「アストダン」と呼ばれていた。 ファース地方に居住していたゾロアスター教徒は、死者を埋めると大地が汚されると信じていたため、遺骸を野外にさらし、残った骨を岩のくぼみに埋葬することが多かった。 この説は、時代的にもつじつまが合う。テネキーで今回発見された木炭の放射性炭素年代測定からは、この場所に人が住み始めたのは10世紀から12世紀の間であることが確認された。これは一帯にポルトガル人がやってきた15世紀後半よりもずっと前である一方、マダガスカルの海岸に最初の都市が建設された時期とはほぼ一致する。 ゾロアスター教は、ペルシャ帝国が7世紀にアラブの侵略を受けるまで、1000年以上にわたって同国の国教だった。現在もインドやイランを中心に信仰を集めるこの宗教は、宇宙には二つの相反する力が働いているという教義を持ち、純粋さの象徴として火を神聖視する。 しかし、ペルシャにアラブ人が侵攻すると、新たに持ち込まれたイスラム教が瞬く間に広まった。論文の著者らは、熱心なゾロアスター教徒は10世紀から11世紀頃にペルシャを離れ、マダガスカル島で独自の入植地を築いたのだろうと示唆している。 マダガスカル島の初期の入植地を調査した経験を持つ米サンタクララ大学の考古学者ネイサン・アンダーソン氏は、当初はゾロアスター教徒とテネキー遺跡との関連性に疑念を抱いていた。 しかし、データや建造物を精査したところ、ほかに説得力のある説を見つけるのは難しいと、氏は述べている。 また氏によると、初期のイスラム世界ではマダガスカルの存在が知られており、この島は伝説に登場する「ワクワク島」と同一視されていたという。なお、アンダーソン氏は今回の研究には関与していない。