家臣を次々に斬り殺したキリシタン大名・前田茂勝、入信後の豹変ぶりと“果てしない転落の道”
前田茂勝は戦国時代末期~江戸時代初期の大名で、豊臣秀吉政権の五奉行だった丹波亀山城主(京都府亀岡市)・前田玄以の息子である。秀吉亡き後に起きた関ヶ原の戦いで前哨戦の「田辺城の戦い」に参加し、歴史に名を残したが、1608(慶長13)年、「発狂」して家臣を惨殺する事件を起こし、幕府から改易を言い渡された。彼の本性は一体どのようなものだったのか――。(歴史ライター・編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明) 【この記事の画像を見る】 ● キリシタン大名が 乱心して家臣を斬り殺す 寛政年間(1789~1801年)に江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』は、大名や旗本の系図をまとめた家譜集だ。そこに前田茂勝の名がある。 通称は「彦四郎」または「主膳正」(しゅぜんのかみ)。主膳正とは位(くらい/官位)を指し、大名の官位としては一般的。決して高い位ではない。 また、茂勝の章の末尾にはこんな一文がある。 「慶長十三年六月、狂気して家臣尾池清左衛門某を殺害し、また家臣等数多切腹せしめし事により所領を没収せられ、堀尾山城守忠晴にあずけられる」 「狂気して」――つまり理性を失い家臣を殺害。こうした蛮行は当時、「発狂」「乱心」といわれ、統治能力なしと判断され改易の対象となった。大名失格の烙印を押されたのである。 「発狂」「乱心」による改易は、無嗣絶家(後継者がいないため御家断絶となる)に次いで多い。「不行跡」(行いが良くない)なども含めると、かなりの数にのぼる。茂勝は発狂によって大名が改易された初期の例である。 発狂したとされる理由は、藩主の重圧に耐えかねて精神不安定になったケースや、わがままに育てられた御曹司がやりたい放題にふるまい刃傷事件を起こす場合など、さまざまだった。藩政が良くないと考えた家臣によって発狂したことに「させられ」、強制隠居となることもあった。 茂勝はどうだったか? 実は茂勝はキリシタンだった。そして、キリシタンであったことが人生を狂わせ、発狂につながった可能性がある。 次ページ以降でキリシタンとなった経緯と、そのことが影を落とした生涯について、詳しく触れる。