家臣を次々に斬り殺したキリシタン大名・前田茂勝、入信後の豹変ぶりと“果てしない転落の道”
八上と亀山の石高はともに5万石だが、亀山は明智光秀→羽柴秀勝(織田信長四男・のち秀吉と養子縁組)→豊臣秀勝(秀吉の姉の子)らが治めてきた地である。 地理的にも亀山は京都洛中まで20kmと近いが、八上(兵庫県丹波篠山市)は同約50kmの山深い地。明らかに格の落ちる藩だった。 それでも茂勝は、八上に転封した当初は篤い信仰を維持し、仏僧である玄以の葬儀を天主堂(キリスト教の教会)で行っている。(※) ※『日本切支丹宗門史』レオン・パジェス、吉田小五郎訳(岩波書店)参照 それが1609(慶長14)年には、すっかり様子が変わってしまう。信仰のためには命も投げ出す覚悟だった姿は微塵もなく、「背教し果てしない転落の道をたどった」(前出『十六・七世紀 イエズス会日本報告集』)という。 転落とは、どういうことか? 『イエズス会日本報告集』は具体的にこう書く。 「教会とはすっかり距離を置き、家来が主君はキリシタンだと公方に訴えようとしていたのに激昂。家来を殺(あや)め、それを知られて厳罰に処されないかと、正気を失ったように徘徊」 冒頭の『寛政重修諸家譜』と、ほぼ一致する。 また俗説だが、家臣を殺害したあと小姓と草履取りを連れて八上を脱出し、近江水口宿(滋賀県甲賀市)で心神喪失に陥り、草履取りを斬り殺す暴挙に出たという。これが「正気を失って徘徊」にあたるとしたら、まさに「発狂」したといっていい。 ● 生来、気が小さく 精神的に脆かったか… 徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利し政権を奪取した当初こそ、キリスト教にある程度は寛容だったが、内心は秀吉以上に警戒していたと考えられる。外国との交流は貿易のみに留め、秀吉が施行した禁教令も解いていない。 そうしたなか、幕府が茂勝を危険視していたという説もある。八上藩の重臣たちも、幕府の意向は承知していただろう。つまり殺された家臣たちは、御家存続のためにあえて茂勝の廃嫡に動き、返り討ちにあった可能性もある。