家臣を次々に斬り殺したキリシタン大名・前田茂勝、入信後の豹変ぶりと“果てしない転落の道”
実際、元禄時代(1688~1704)以前は、大名の家中から積極的に藩主の行状を訴え、自ら幕府の介入を招いているケースもある。八上藩もその類例だったということができるかもしれない。(※) ※『御家騒動 大名家を揺るがした権力闘争』福田千鶴(中公新書)参照 肝心なのは、家臣殺害が茂勝発狂→改易のかっこうの口実になってしまった点にある。危険人物が自ら墓穴を掘ってくれたわけで、幕府には好都合だったといえる。 想像の域を出ないが、茂勝は生来、気が小さく孤独で、それゆえに青年期は粗暴な行動に走っていた。そこで「デウス」に救いを求め一時は精神が安定したものの、父の死によって後ろ盾をなくし小藩に移封されると、再び不安がもたげて自滅した――そう思えるのである。 改易された茂勝の身柄は、茂勝の姉が嫁いでいた松江藩堀尾家に預けられた。 1613(慶長18)年、キリシタン禁令と宣教師国外追放令が正式に発布され、翌年には外国人宣教師および高山右近らキリシタン大名が、フィリピンなどに追放された。 茂勝は松江に行ったのちに改心し、敬虔なキリシタンとして暮らして没したと伝わる。 信仰にしか生きる希望を見出せない男だったのかもしれない。それほど信心深いだけに、八上での蛮行が悔やまれる。 なお、茂勝改易後の八上藩には松平康重が入封したが、ほどなく省庁を八上城から約4km西の篠山城に移して名も篠山藩とし、八上藩は消滅した。 参考文献 『前田秀則・茂勝』狭間芳樹(『キリシタン大名』五野井隆史監修に所収)/宮帯出版社 『江戸300藩「改易・転封」の不思議と謎』山本博文/実業之日本社 『御家騒動 大名家を揺るがした権力闘争』福田千鶴/中公新書
小林 明