家臣を次々に斬り殺したキリシタン大名・前田茂勝、入信後の豹変ぶりと“果てしない転落の道”
● 父との確執もいとわず 熱心にキリスト教を信仰 茂勝は1582(天正10)年の生まれとされるが、誕生した日時は不明。父は豊臣秀吉の下で石田三成・浅野長政らとともに五奉行を務めた丹波亀山城主・前田玄以である。玄以は17年にわたって京都所司代の役職にもあり、秀吉の信任は厚かった。 玄以の長男が秀則、次男が茂勝(三男の説もある)。兄弟はそろって1594~1595(文禄3~4)年頃、キリスト教の洗礼を受けたことが、日本に滞在していたイエズス会宣教師・オルガンティーノの書簡で確認できる。 洗礼名は秀則が「パウロ」、茂勝が「リアン」で、茂勝はのちに「コンスタンチノ」を名乗った。 オルガンティーノは、特に熱心に入信を希望したのは茂勝だったと記すが、同時に洗礼を授けるかを迷ったという。 というのも、すでに1587(天正15)年に秀吉がバテレン追放令を発しており、だがのちに海外貿易にはイエズス会の協力も必要であるという考えから宣教師の滞在を一部容認するなど、キリスト教政策が二転三転していたからだった。 前田兄弟の洗礼は、この7~8年後のことだ。オルガンティーノにしてみれば豊臣政権の中枢・前田玄以の息子たちに洗礼を施した場合、秀吉の怒りを買うリスクがあると考えたのだろう。 しかし茂勝は、「父(玄以)が(秀吉から)不興をかぶることはない」と答え、オルガンティーノも願いに応じたという。(※) ※『十六・七世紀 イエズス会日本報告集』松田毅一監訳(同朋舎出版)参照 仏教僧でもあった玄以は秀吉の下で寺社を統括し、またバテレン追放令の際はキリシタン弾圧に加担したこともあった。このため、茂勝は入信を父に隠した。「(秀吉から)不興を買うことはない」という言葉は偽りだった。
一方、生活は一変した。もともと荒々しい性格で傍若無人だった茂勝が、社会に対して「従順」になったとオルガンティーノは記す。 ところが1596(慶長元)年8月、スペイン船サン=フェリペ号が暴風雨の影響で四国の土佐に漂着する事件が起き、このとき乗組員の一人が、スペインはキリスト教布教を通じて日本を植民地化する計画を持っていると、口を滑らせた。 秀吉は激怒し、国内にいる26人の信徒を磔にした。「二十六聖人殉教事件」だ。 茂勝も死を覚悟し、父にキリシタンであると告白した。玄以は「太閤がおまえに死を命ずれば、私が手を下す」と答えたという。だが、茂勝にまで追求の手が及ぶことはなかったと、ルイス・フロイスは記録に残している。(※) ※『日本二十六聖人殉教記』ルイス・フロイス、結城了悟訳(純心女子短期大学長崎地方文化史研究所)参照 こうした記録はイエズス会関係者によって書かれているため、信者だった茂勝をことさら美化しているとも考えられる。そのまま鵜のみにはできないが、少なくともここから伝わる茂勝像は敬虔な信者に他ならない。 兄の秀則は、時期は不明だが20代で死んだとされるが、茂勝はその後も信仰を保ち続けた。 ● 関ヶ原の戦いを経て 八上藩へ移封させられると… 1598(慶長3)年、太閤秀吉が死去。玄以と茂勝は遺児の秀頼に仕え、引き続き豊臣を支えた。 関ヶ原の戦いでは、父・玄以は大坂城に残り表向きは東西両軍どちらにも与しない中立の立場にいたといわれる。このため戦後は所領の丹波亀山を安堵された。 一方の茂勝は石田三成の西軍に属し、前哨戦の田辺城の戦いで奮戦したため、本来なら処罰の対象だった。だが、田辺城を開城させる使者を務め、城主で東軍の有力者だった細川幽斎の命をとらなかったなどが評価され、罰せられることはなかった。玄以の威光が大きかったとも考えられる。 1602(慶長7)年、その玄以が逝った。前田家の家督は茂勝が継いだ。すると家康は亀山を天領(幕府直轄地)として召し上げ、茂勝を同じく丹波にある八上藩(兵庫県丹波篠山市)へと移封させた。 ここから茂勝の暗転が始まる。