芥川賞受賞作家で医師の朝比奈秋「生き延びるための手術に罪悪感をおぼえて。葛藤から自分を救済するために、物語が必要だった」
『サンショウウオの四十九日』で第171回芥川賞を受賞した朝比奈秋さん。消化器内科医の顔も持ち、現在は非常勤として週に1回、働きながら執筆を続けている。デビューから3年。何かにとりつかれたように、続々と小説を発表する彼の胸の内は(構成:山田真理 撮影:本社・武田裕介) * * * * * * * ◆受賞ラッシュに父は「そろそろか」と 僕が突然小説を書き始めたことに家族は、「また変なこと始めたなあ。でもまあ、いい趣味が見つかってよかったんちゃう?」という程度の反応でした。 初めての単行本が出たときも、「医者は辞めずに続けたほうがいいやろ」と言うくらいで、プロになるなんて誰も想像していなかったと思います。 風向きが変わったのは、昨年『植物少女』で三島由紀夫賞の候補になったあたりです。「あれ? もしかしてうちの子の小説は意外といけてるのか」と目の色が変わってきた(笑)。特に父は根拠のない妙な自信を持っていて、「絶対お前が受賞するで」とか言うんです。僕の小説も含め、候補作を一冊も読んでいないんですが。(笑) 運よく受賞作に選んでいただけたものだから、父のなかでますます評価が上がりました。同じ年に、『あなたの燃える左手で』が泉鏡花文学賞と野間文芸新人賞を受賞したときは、大喜びというよりは当然といった感じで、「芥川賞もそろそろか」などと言ってました。 こちらとしては、そんな甘い世界とちゃうねんけど、と(笑)。でも、変に文学に詳しくてあれこれ口を出されることもなく、単純に「賞を獲った、獲らない」を楽しんでくれているので、気が楽です。
◆書く作業はいつも苦しい 作風は、最初に書いたお坊さんの寓話的なものからずいぶん変わって、現代を舞台に自分の経験や知識をもとにしたものになりました。 デビュー作となった「塩の道」という短篇は、青森・西津軽の診療所で、いわゆる僻地医療を担当した経験がモチーフ。医師としてよかったのは、人間のタフさを感じられたことです。その土地の人々が、医療に頼り過ぎず、力強く生きていることに衝撃を受け、創作につながりました。 医療の現場で感じたことが自分のなかで膨らみ、答えが出ないまま物語の形をとって昇華しようとしているのではないか。今ではそのように自己分析しています。 たとえば、「私の盲端」という作品。これは人工肛門の手術に関わった際、生き延びるために必要な治療だと頭ではわかっていても、腹を開いて腸を切り取り、新しい腸と肛門を「作る」ことに、罪悪感をおぼえたことがきっかけです。 手術が成功した後も患者さんの人生は続くという事実が、僕に重くのしかかって。他人の感じる痛みや苦しみは自分では味わえない、という当たり前のことを受け入れられず、答えの出ない自問も繰り返しました。 もともとの肛門とは別の場所から便が出ることに、なぜ多くの人は忌避感を抱くのか。そもそも消化とは、食べるとはいったいどういうことなのか――。しかし、そんなことを考えていては医師はやっていけない。この葛藤から自分を救済するために、物語が必要だったのかもしれません。 ただ、僕の頭に浮かんだストーリーは、書いているうちにどんどん変わっていきます。「私の盲端」は、主人公が半年後には恢復して「よかったね」で終わるんちゃうかと楽観的に書き始めました。ところが一章が終わったところで雲行きが怪しくなって。物語が思わぬ展開となり、僕自身がショックを受けてしまったんです。 どうしたらいいんや、希望は見出せないんか、と悩みに悩みました。物語の見通しが甘いことは、そのまま自分自身の生死に対する考えの甘さとして浮き彫りになる。だから、書く作業は毎回すごく苦しいです。
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