「海を嫌いになることなんてできない」母になった“つなみの子” 10年後の決断 #知り続ける
「え、もう住めるんだ」原発の町・大熊町に戻る
真知瑠さんは高校卒業後、一人で新潟や山梨に住んだ。それでも心機一転というほどの変化には至らなかった。そんなとき、郵送で届いた大熊町の広報誌が目に留まった。大熊町の再開発地区で公営住宅の募集が始まるという案内だった。福島第一原発では廃炉作業が続くが、除染が徹底された大川原地区は復興の拠点だった。「え、もう住めるんだ」と思った真知瑠さんはすぐ大熊町役場に連絡した。
「震災が起きた中2から20歳くらいまでは暗黒の時代でした。ずっとあの2011年3月11日にとらわれて、悩み続けていたんですね。それで親戚の縁があって山梨にいたんですが、公営住宅の案内には胸が躍りました。大熊に戻れるのは希望に思えたんです。確かに戻ってもお店もないだろうし、不便だろうとは思いました。でも、自分が戻れば町のためにもなるかもしれない。それなら『ちょっと先陣切って行ってくっか!』みたいな感じで応募したんです」 2019年1月、真知瑠さんは単身で大川原の公営住宅に転居した。もっとも早い帰還組の一人だった。当初はコンビニエンスストアで働き、その後、役場の有期任用職員を経て、近くの東電の社員寮の食堂で働くことになった。そこで出会ったのが前出の鶴岡大輝さんだった。 あらためて震災後の13年間を考える。震災1年後の真知瑠さんは、生きている間には大熊町に戻れないと考えていた。だが、実際には8年後には戻ることができた。それどころか、その故郷の町で伴侶を見つけ、子どももできた。当初の予想から大きく変わっていたのが現実だった。
つらい時間というのは永遠に続くものじゃないんですね、と真知瑠さんは笑う。 「悲しみを乗り越えるって言いますが、乗り越えることはできないんじゃないかと思うんです。体験は消えないから。でも、その悲しみと共存はしていける。それでいいんじゃないのかなといまは思います」 娘という存在ができ、母となったことで、自分自身も変わったと感じる。それは自分より大切な存在ができたということだ。 「出産の半年ほど前に一つ大きな手術をしたんです。その経験もあって、出産のとき、もし何か選ばなければいけない状況だったら『私はいいから娘を選んでね』と夫に伝えました。それくらい大切な存在ができたということは、自分も変わったんだろうなと思います」