「ハニワと土偶の近代」が東京国立近代美術館で開催。古の遺物に注がれてきた視線の変化をたどる
ハニワや土偶が各時代でいかにとらえられ、美術を中心に創作のモチーフとなってきたのか、その系譜をたどる展覧会「ハニワと土偶の近代」が東京国立近代美術館で開催される。会期は10月1日~12月22日。担当は同館主任研究員の花井久穂と成相肇で、花井がハニワ、成相が土偶を担当している。 なお、本展開催と同時期には、東京国立博物館で特別展「はにわ」 (10月16日~12月8日)が開催される予定となっている。東博が平仮名の「はにわ」なのに対し、本展においてはカタカナの「ハニワ」が使われることについて、花井は次のように説明した。「解説や図録のテキストで多用することになるため、文章内で使うときの読みやすさを意識し、なおかつ幅広い世代が読みやすく興味をもってもらえるようにカタカナを選択した」。 展覧会は序章と1~3章の4章構成で、ハニワや土偶といった出土遺物を美的に愛でる視点がいつごろ生まれ、美術作品に登場するようになったのかを探るとともに、そこに注がれる視線の変化をたどる展覧会となる。 序章「好古と考古─愛好か、学問か?」では、古の遺物が近代においてどのように扱われていたのかを探る。江戸時代後期に活躍した「好古家」と、明治時代に西洋から持ち込まれた「考古学」はそれぞれ重なり合いながら、ときに美術を生み出す源泉となった。蓑虫山人は文人画の形式に従って土偶や土器を描き、五姓田義松は細やかな陰影を表現しながら埴輪のスケッチを描いた。西洋からもたらされた近代というプレッシャーのなかで、自分たちのアイデンティティを探すともに、その重層性にも気づいていくという、まさに美術の歴史と密接につながる営みがハニワと土偶にはあった。 第1章「『日本』を掘り起こす─神話と戦争と」では、近代国家としての日本を形成するうえで、「万世一系」史観の象徴的な存在とされるようになったハニワとその表象を紹介。 当初は上代の考古資料として、服飾や生活を知るうえでの手がかりとなっていたハニワだが、1940年の皇紀2600年を目前に埴輪の美そのものが着目されるようになっていく。また、ハニワは日中戦争の勃発もあり、大陸からの仏教伝来以前の「日本人の心」を取り戻そうとする運動に組み込まれていく。本章で展示される都路華香《埴輪》(1916)は、明治天皇の伏見桃山陵の造営という、近代初の古墳事業のために新作の埴輪をつくったことに影響を受けたと思われる作品。また、埴輪が神的存在としてあしらわれたスポーツ競技会のメダルなども紹介される。さらに戦時中、蕗谷虹児が倒れた航空兵を抱いて雄叫びを上げる古代の武人を描いた《天兵神助》(1943)は、戦意高揚のためにハニワの表象が使われた典型的な例といえるだろう。 いっぽう、こうした時代においては、抽象絵画に厳しい統制がなされた。しかしながら、小野里利信(のちのオノサト・トシノブ)が円をモチーフとした抽象画に《はにわの人》(1939)と名づけ、抽象と具象のあわいで生き残ろうとするなど、ハニワは残された創造性の源泉にもなっていた。 第2章「『伝統』を掘りおこす─『縄文』か『弥生』か」は、戦後の復興の中で各地で発掘が進み、皇国史観とは異なる実証的かつ科学的な考古学において出土遺物が見直されるようになった時代を追う。 この時代は「伝統論争」といわれる「縄文(土偶)」と「弥生(ハニワ)」のどちらに日本の文化的なシンボルを託すのかという論争が建築分野を中心に起こり、弥生派として丹下健三が、縄文派として白井晟一が対抗し合った。いっぽう、美術の分野ではイサム・ノグチ、宇野三吾、建畠覚造らが陶芸や木彫でハニワをモチーフとした立体を制作。いっぽう、岡本太郎が土偶に日本の原点としての美を見出したことは有名だろう。 さらに本章では、ろうけつ染めによって描かれた全幅13.5メートルの芥川(間所)紗織による先史時代や神話モチーフとした大作や、コラージュの名手である桂ゆきによって、縄文時代の顔面把手付き土器が引用された《人と魚》(1954)なども紹介される。 第3章「ほりだしにもどる─となりの遺物」は、ハニワや土偶のイメージが70年代~80年代にかけて特撮やマンガといった日常のなかのサブカルチャーにも取り入れられていった事例を紹介。水木しげる、みうらじゅんん、さらにタイガー立石や劇団カッパ座によるNHKの番組「おーい!はに丸」(1983)などを紹介。無意識のうちに日本人が内面化している、原点としてのハニワや土偶のイメージのあり方が提示される。 担当のひとりである花井は記者発表にて、本展について次のように語った。「ハニワと土偶に注がれてきた視線の変遷に焦点を当てた展覧会となる。幅広い世代がハニワや土偶の歴史的な意味を踏まえたうえでとらえなおせる展覧会となれば」。